「……っ降りる!自分で歩く!」
「まともに歩けなかったくせに、何言ってんだよ」
「もう平気だって!第一おかしいだろ、こんな…」

背中の上で暴れる臨也を強引に捕まえたまま、エレベータを降りてマンションのエントランスホールを抜ける。
力で敵わないと分かっているからか、それとも本当に悪あがきをする余力さえないからか、臨也はぐうと言葉を呑んでとりあえず大人しくなった。
無駄に暴れたせいで息が余計に上がり、はあはあと荒い呼吸音がしばらく続く。

確かに臨也が言うとおり、どう考えたって今の状況はおかしい。
どう甘く判断したって、静雄と臨也の関係は友達にさえなりえない。
あえて言葉にするならば、他人だ。
会えば喧嘩をし、罵り、殺し合う者同士がこうして背負い、背負われているというのは不自然極まりない。

「どうして…、帰ったはずだろ……?」

待ち構えていたタクシーに臨也を座らせ、自分も同じように隣に並ぶ。
可能な限り端に寄った臨也は、体重をすっかりドアに預けて早々に目を閉じてしまった。
走り出した景色をしばらくぼんやりと眺めていた静雄の耳に、うわ言のような臨也の声が響く。

どうして、と言うのならば、静雄こそ臨也にどうしてと問い質したい気分だった。
いなくなるな、と瞳で訴えたのは臨也だ。
まともな状態ではなかったとはいえ、結果として静雄を今も思い留まらせているのは臨也ではないか。

「知るかよ。てめぇが言ったんだろうが」

ガラスに反射する臨也のぐったりとした背中を見つめながら、静雄は吐き捨てた。
まるで言い訳をする時のような後ろめたい気持ちさえ生まれて、全をて一緒に捨ててしまいたいと思う。
そうすればこんなに面倒な感情に振り回されずにすんだのだ。
初めて臨也が静雄を呼んだあの日に、何もかも切り捨ててしまえていたなら、こんな非日常に巻き込まれずにすんだはずなのに。

(どうして、捨てられねぇ)

ずるり、と崩れた臨也の体を静かに座席に引き上げ、コートを掛け直す。
眠る顔、苦しみに歪む顔、涙を溢れさせた顔、さびしさを堪えるような、顔。
古い記憶の中にある臨也の顔が、どんどんと塗り替えられて、歪んでいく。
どれ一つ綺麗な感情を静雄の中には残さないというのに、ずるずると静雄を絡め取る。

そんなに辛いのなら、なぜ静雄を呼ぶ必要があるほどに傷を作るのか。
おかしいと思うのなら、なぜ同じことを繰り返すのか。

「…お前、覚えてねぇのかよ」

滲んだ汗で束になったアシンメトリーの前髪を指先で払いながら、静雄は小さく呟いた。
行くなと泣いた臨也に、思わず告げてしまった言葉を、静雄は心の中で繰り返す。

『目が覚める頃に、また戻ってくる』

その言葉にとろりと瞳を和らげて眠りに落ちた臨也の表情が、少しずつ、けれど確実に静雄を一つの可能性へと押し流していた。



***



静雄と臨也の間に小さな変化が訪れたあの日以来、臨也は相変わらず怪我を繰り返し、動けなくなるまで傷を作っては静雄を呼んだ。
そうしていつの間にか、怪我をしていない期間がほとんどなくなったある日、静雄はとある仮定を確信に変える。

「ねえ、こいつがどうして怪我をしてはあなたを呼びつけるか、考えたことはある?いつまでこんな馬鹿げたことが続くのか、どうすれば終わるのか、考えたことはあるかしら」

臨也の秘書だという女は、呆れた眼差しで眠り込む臨也を見下ろしながら言った。
もちろん静雄は何度も嫌というほどその問いの答えを巡り、思考を働かせてきた。
けれどその度に明確な答えに行き当たらず、推測ばかりが増えてしまって、考えることをやめてきた。
元来考えることが苦手な静雄とは違い、浪江と名乗ったこの女が、静雄の持ちえない何等かの答えを握っていることは確かだった。

「恐らく、あなたがこのままなら、このイタチごっこは終わらないわよ。あなたが黙っている限り、終わらないわ」

静雄を真っ直ぐに見つめる冷たい瞳は、少しも揺らがない。
静雄は苦虫を噛み潰したような表情で、拳に力を込めた。

傷を負っては、静雄を呼ぶ声。
行くなと泣いて、引き留める手。
言葉に応じれば、緩まる瞳。
そして繰り返されるこの日々が、静雄の中で一本の糸のように絡み合って、そっとひとつになった。

next coming soon

お題提供:キンモクセイが泣いた夜

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