「足、切らなかったか」
「ああ、うん、…大丈夫。びっくりしたけど」

素足のままの足をガラスの破片から遠ざけて、臨也は床に膝をついた。
まさかの失態だ。そんなに疲れているつもりはなかったけれど、案外体力を消耗したらしい。
塵取りと箒がこの家にあるだろうか、と思いながら、大きな破片をとにかく拾い集める。
のそりとキッチンへ向かった静雄がごみ袋を片手に戻ってきた時、鋭い痛みが指先に走った。

「……っ」

反射的に指を引っ込めて、ぱくりと口に加えた。
血は見なかったけれど、絶対に切れた。
どくどくと痛みに脈打つ指先をもう片方の手で押さえると、じわりと血が浮かび上がった。

「何してんだよ、どんくせぇな」
「うるさい。俺は普通の人間なんだから、シズちゃんと違って簡単に指も切れるさ!」

ますます情けなさが増して、半ば八つ当たりのように声を荒げた。
何をそんなに殺気だっているのかと、静雄は眉を歪めながら臨也の足元のガラスを拾い集める。

「人が拾ってやろうと思ってんのに、勝手にやっちまうからだよ」
「シズちゃんのお世話になるくらいなら、指切ってでも自分で拾った方がマシだ」
「……可愛くねぇな」

ガラスの破片をものともせず、てきぱきと片づける静雄のつむじに向かい、毒を吐く。
そうだ、どうせ自分は可愛らしさの欠片もない、どちらかと言うと憎たらしい男だ。
そんな男が、まさかガラスを拾うその指先の案外器用な動きにさえ、動揺しているなんて。

二枚重ねのごみ袋にガラスの破片を入れ終えた静雄が、そのすぐそばに立ちつくしたままの臨也をふいに見上げた。
視線が交わり、ぱちりと臨也が瞬くと、胸元で固く握っていた手を静雄が突然掴み取った。

「ちょ、ちょっと…何!」

静雄「にしては随分力をコントロールして妻枯れた手が、傷の痛みとは別にどくどくと大きく脈打った。
溢れた血が互いの指先をぬるりと滑らせる。

「手当しねぇでどうすんだよ」
「い、いいよ!そのくらい自分でやるから!!」
「片手じゃ上手くできねぇだろ」

体温の高い武骨な手が、臨也の冷たくて薄っぺらい手をしっかりと取る。
傷口を避けながら包むように触れられて、その優しい感触に臨也の鼓動は知らず速まる。
思ったよりも丁寧に、それでいてどこか強引に。
臨也の手を引く静雄の大きな手のぬくもりが、じわりじわりと臨也を浸食する。

「できる!できるから…!」

辛うじて残った理性が、このまま心地よい感情に全てをゆだねることを拒む。
いつも無遠慮に臨也の身体に触れ、割り開き、我が物顔で蹂躙する手が、ほんの少し優しく感じられたからと言って、まさかこんなに揺さぶられるなんて。
こんなのは自分らしくない。
こんなに簡単に、誰かに感情を左右されるなんて。

掴まれた手を引き寄せようと力を入れた臨也の手は、よりきつく、静雄の手に絡め取られた。
傷口のすぐそばを握られているため、さして抵抗することも叶わず、臨也はあれよあれよと言う間に静雄によって救急箱の元へと連行されてしまった。
小さな怪我は自分で手当てしているからか、静雄は少々こなれた手つきで臨也の傷の止血をし、消毒液をかける。

「結構痛ぇだろ、これ」

消毒液が傷口に沁み、腕を僅かに緊張させた臨也に、視線を向けることなく静雄が言った。
臨也が逃れられないようにしっかりと指を掴む静雄は、慎重に臨也の血を拭う。
恐らくほとんど力など加えていないのだろう。
やわやわと触れてくる静雄の指先が、臨也の肌の上を滑って落ち着かない。
滅菌したガーゼを宛がい、筋張った指が真剣に包帯を巻く様に、どうしたって視線が向かう。

(ああ、だめだ)

本当に自分はどうかしてしまったらしい。
手当てが終わらなければいいと、ずっと静雄にこうして手を握られていたいと願っている。
認めたくないけれど、認めざるを得ないほどの欲求が臨也を困惑させる。

「ん、できたぞ」

満足げによし、と言った静雄の指が、とうとう臨也から離れていく。
自分でも驚くことに、臨也の指先は衝動的に静雄の指を逃すまいと握り締めた。

「なんだ?」

きゅっ、と力を込めると、じくりとガラスで切った傷口に鈍痛が走った。
それと同時に、臨也の体を走る熱い波が臨也をくらりとさせた。
それはまるで感じたことのない、初めて味わう充足感。

「痛むか?」

静雄の熱い指先が、臨也の手を気遣うように包む。
白い包帯と、交わる指が非現実的すぎて臨也の平静を奪う。
互いが互いの意思で結ぶ指先が生んだ感情は、単純な恋しさだった。
もっと、手を、今度は手当てなんかじゃなく、理由などなく―――。

「……っ、なんでも、ない」
「そうかよ。まあ、風呂入るんなら手にビニール被せた方がいいな」

理性に反して動く心臓を落ち着かせるかのように、臨也はそっと静雄の指を離した。
臨也の動揺などつゆ知らず、静雄は台所へ手頃なビニール袋を探しに向かう。
離れていった温もりは既に遠く、けれど臨也の肌に、記憶に、しっかりと植え付けられた。
じくりじくりと脈打つ傷口をそっともう片方の手で包み、息を吐く。

それは、臨也の中で燻っていた欲望が、確かな形を得た瞬間だった。



***



カンカン、と脆く錆びた鉄性の階段を登りながら、臨也の意識は目の前の大きな背中へと戻る。
あの時思わず握った指は、今も臨也にとって遠い存在のままだ。

触れ合う指先から流れ込む温度を思い出し、臨也は冷えた指先をポケットから取り出して、じっと見た。
臨也と静雄の手が結ばれた瞬間に訪れたものは、臨也が今まで意図的に遠ざけて来たものだ。
裏のないまっさらな安心感と、隠したままの扉を静かに開く優しさ。
そんなもの、自分にはさらさら似合わない。
小さく鼻で笑って、臨也はもう一度ポケットの中に手を突っ込んだ。

「何してんだ、さっさと入れよ」

既に扉を開けて待っていた静雄の赤い鼻っ面を見上げて、臨也は破顔した。

(責任取ってよ、シズちゃん)

いつだって臨也の中にイレギュラーを持ちこんでくる、いけ好かない男。
それでも求めずにはいられない温もりが、さらに臨也を覚束ない場所へと押し流す。
けれどもし臨也にもまだ、欲望に染まらない方法で他人と繋がることが許されるのなら、この際いっそどうにでもなってやろう。どこまで流されたっていい。

その代わり、流されるのは自分だけじゃない。
自分だけがこんな風に変わっていくのは臨也のスタンスに反する。
甘い泥に沈むのなら、もちろんこの男も一緒でなければ意味がない。
ただ恋しいと、棚から餅が落ちてくるのを待っていられるほど、臨也は気が長くないのだ。

「何笑ってんだよ」
「別に」

さて、まずはどうやってキミにこの手を取らせるか――。

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