絶対に、殴られると思った。
てっとり早く静雄をキレさせて、いつもの喧嘩に流れをもって行くつもりで、わざと静雄が嫌う言葉や態度を選んで喋った。
それなのに、静雄はまだ理性を保っている。

(何でこんな時だけ…!)

顔が近い、息が掛かる。
思考が乱されて、隠していたものが疼く。
けれどそれだけは何が何でも隠し通さなければならない。
今更「好き」だなんて、それこそ静雄との関係性を自らぶった切るようなものだ。

「ほんっと、シズちゃんって単純でオメデタイよね。俺が君の弱みを探ろうとしてたとか考えないわけ?」
「もし仮にそうなら、てめえは絶対自分では動かねえ。胡散臭ぇ笑顔貼りつけて、高みの見物でもしてるタチだろうがよ」

静雄は一歩も引かない態度で、臨也をどんどん追い詰める。
臨也はとうとう視線を静雄の足元へと逃がし、唇を噛んだ。

本当はずっとずっと静雄のことが好きで、隠そうとすればするほど膨らむ厄介な感情を一人で抱えることが辛くて、寂しくて、どんなに小さなことでもいいから構って欲しくて。
やり場のない気持ちが辿りついた先が、電話だった。
調べ出した静雄の携帯ナンバーを、期待と後ろめたさに震える指で恐る恐る押した。
受話器の向こうに待っていたのは、臨也の想像をはるかに超えた事実だった。
自分の話を切れずに黙って聞いて、頷いて、返事をして、「じゃあな」と言った静雄の声が忘れられない。
電話をしている間だけは、静雄は自分だけのものだった。
臨也の言葉にだけ耳を傾け、その時だけ細く細く繋がる糸が、たとえようもなく喜びだった。

(知られたくない…っ)

なぜ電話したのか、なんて言えるはずがない。
言ってたまるものか。
けれどもう、臨也の思考回路は言うことをきいてくれない。
どうせ何か企んでいるのだろう、と詰られた方がよっぽどましだ。

言葉を失った臨也に、静雄が呆れたようにぐしゃぐしゃと無造作な金髪をかき混ぜた。
手持無沙汰な左手が胸元から煙草を取り出し、火をつけることもせず指先でころころと転がす。
何かを言いあぐねている様子の静雄は、やがて小さく溜息を吐いて、臨也を呼んだ。

「俺はてめぇみたいに逃げたり理屈を並べ立てたり、嘘吐いたりすんのは大っ嫌いだ。だから正直に言う」

何を言いだすのかと、目を丸くして臨也は静雄を見上げた。
ばつの悪そうな表情で、けれど言葉通り少しも揺れない瞳が臨也を真っ直ぐ貫く。

「俺はノミ蟲なんざさっさと死ねばいいと思ってっし、いつかぶっ殺すつもりでいる。…けど、電話で話してる時のお前は、いつものうぜぇノミ蟲じゃなかった」
「え……、」
「だあーから、上手く言えねぇけど…、あんまイライラしなかったし普通に話せたことにも驚いたし、悪くねぇと思ったんだよ」

普段から口数の少ない男の流暢ではない言葉が、ゆっくりと臨也の脳内に響いた。
じっくり咀嚼して理解しようとするけれど、どう整理しても信じられない結果になる。

「だから、てめぇのやり方が気に食わねぇ。電話番号ってのは普通、交換し合うもんなんだろ。勝手に調べて勝手に掛けてきやがって、完全に俺の意志無視じゃねぇか」

ぐしゃりと潰れた煙草が、地面に音もなく落ちて静雄の靴底に消える。

おかしい。おかしいおかしいおかしい!
一体目の前で何が起こっているのか全くもって分からない。
悪くない?電話番号を交換し合う?静雄の意志?
この男は何を言っているのだろう。だってそんなはずがない。
静雄が臨也に対して友好的であったためしなど、出会ったその瞬間からただの一度もなかったのだから。

「俺からの電話、嫌じゃなかったの…?」
「……まあな」

思わず呆然と口を開いた臨也に、どこか面白くなさそうに静雄が同意した。
なんの変哲もない路地で息を吸って、そして吐いて。
それだけのことなのに、今のこの時間と空気が特別なもののように思えて、喉を通る空気が熱くて、唇が震える。
真っ白になった頭の中に、たった一つ、静雄の言葉が色を落として、臨也が必死になって折りたたんでいた小さな感情を解いた。

これ以上、この感情を隠していられない。
だって仕方ない。臨也がどんなに一生懸命見つけてしまわないように隠しても、静雄が容易く見つけ出して拾い集め、どんどんと大きくしてしまうのだから。

「なっ…!泣くなよ、意味分かんねぇ!」

じわりと幕を張ったと思った涙が、もう次の瞬間には溢れ返って零れ落ちた。
自分で自分の感情がコントロールできない。
思うようにならないことへの苛立ちが、余計に涙を促す。
それでも絶対に嗚咽なんて漏らすものかと唇を噛みしめたのに、臨也の涙を見た途端、らしくもなく慌てた様子で表情を伺う静雄を見ると、それも徒労に終わった。

「だって…!絶対、俺が教えてって言ったって、シズちゃん教えてくれないと思ったんだよ!俺嫌われてるし、殺したいと思われてるし…!でもなんか今日は優しいし、電話、嫌じゃなかったとか言うし…っ」

ああ、なんて見っとも無い姿を晒しているのだろう。
頭の片隅で現状を思うとたまらなく逃げ出したい。
逃げ出したいけれど、いっそもう全て知られてしまえばいいと自棄を起こす自分もいる。

どうして電話をしたのかなんて、認めてしまえば酷く単純な理由だ。
大嫌いなはずの男に会えないと寂しくて、口にすればそれだけで苛立つ相手に構って欲しくて、名前を呼ばれたくて、こっちを向いて欲しくて。
考えたくないとどこかへ押しやろうとしても、頭の中に浮かぶのは静雄のことばかり。
好きなんかじゃない、忘れよう、そう言い聞かせながら、会いたい声を聞きたいと思ってしまう。
一体どうしたいのかさえ分からず、ただ感情だけが先走る。
そうして、どうにもならない感情が行きついた先が電話という手段だった。

衝動で始まった「電話」だったけれど、静雄と何度も話す中ではっきりと分かった。
自分が本当に望んでいたのは、たったひとつだ。

「――俺、シズちゃんの一番になりたい」

鼻を啜りながら言った臨也に、静雄は面食らったように目を見開いた。

「誰にも渡したくないんだよ、君のこと。俺だけのものにしたい。馬鹿げてるって思うだろう?俺もそう思う。この折原臨也が、誰か一人を、それも天敵である君を独り占めにしたいなんて、正気の沙汰だとは思えない。だから絶対、誰にも言うもんかって思ってた」

だから今まで通りを装って静雄を挑発しては、派手に喧嘩を繰り広げた。
そうしている間は、自分を偽っていられると思っていたのだ。
けれど徐々に人徳を得て周囲に人が増え始めた静雄は、いつも誰かと一緒にいた。
そんな姿を目にする度に、臨也は抑えられない欲求に支配された。

「絶対誰にも、君にだって、言うつもりはなかったのに…!無責任な優しさはずるいよ。俺のことなんてどうでもいいと思ってるだろう?そのくせそうやって、俺が分けわかんなくなってぐちゃぐちゃな時に限って、なんで構うのさ!どうせ誰にだって君は優しいだろ?そういう性格だからね、シズちゃんは。俺に優しいのも何かの慈善事業の一環かな!そんなのクソ食らえだ」

自分でもだんだん何を言っているのか分からなくなってきたけれど、それでも臨也は口を動かすことを止めない。
どうせこの気持ちは空回るに決まっているのだから、もうここで止めたって結果は同じ。
それならすっぱりと諦められるように、全て吐き出していっそこっぴどく拒絶されてしまいたい。

「優しくするなら、俺のものになってよ!他と同じじゃだめなんだ…っ!一番じゃないならないよ、そんな甘ったるいもの!」

涙で濡れてべたべたする頬をコートの袖で拭いながら、困惑したままの静雄を睨んだ。
これ以上後悔するのも思い悩むのもごめんだ。
何度も何度も眺めて来た「愛の告白」には程遠い、甘さの欠片も見当たらないこの状況こそが、自分には相応しい。

ふう、と詰めていた息が、臨也の唇の間から漏れた。
言ってしまうと案外あっけない。
認めたくはないけれど、緊張していたらしい身体から力が抜けて、このままへたり込んでしまいたい。

しばしの沈黙が続き、そろそろ本気で逃げ出したい羞恥に見舞われた時、ようやく静雄が乱雑に金髪をかき混ぜながら息を吐いた。

「―――やっと素直になったかと思えば、なんでてめぇはそうややこしいんだよ」

拒絶、否定、蔑み。
どんな罵詈雑言も今なら受け止めてやろうと構えていたはずが、静雄が発した言葉は予想した類のものではなかった。
何を言い出すのかと大きく瞬くと、涙がぽろりと頬を滑り落ちた。

「トムさんは職場の先輩として一番尊敬してる。ヴァローナは後輩として俺が一番面倒みてやんねえとだめだ。新羅は腐れ縁だがなんだかんだで一番信頼してる。セルティは親友だから話してて一番落ち着く。誰も俺にとって同じやつなんていねえよ。一人一人が俺にとって一番なんだよ」

一つずつ確かめるように語る静雄の声は、少ない友人たちを一人ずつ大切に思い、一人一人にぎっしりと詰まった思い出や、彼らを思う柔らかな感情をはらんでいた。
そこに臨也の名前はない。
今まで数年間ずっと静雄の記憶の中に名を連ねて来たはずだけれど、臨也はその場所へは行けないのだ。
自分がそう振る舞い、仕向けて来たのだから当然だが、そのことがたまらなく悔しい。

「……じゃあ、俺ってシズちゃんのなんなの」

そんなこと聞いてどうするつもりだ。
友人でもない、もちろん恋人になんてなれるはずがない。
今まで一度だって臨也と静雄の関係を上手く言葉で表現できた試しがない。
最も近しい言葉はきっと「天敵」だろうが、それじゃあ電話を交わし合った幾度もの夜の二人は何者だったというのだろう。

心の中で冷静な部分がそう嘲笑うけれど、何か明確な答えが欲しかった。
せめて静雄の中で「思い出」として扱われる程度の棘になって、記憶に刻んでやりたい。
自虐的な思いでそう尋ねた臨也に、静雄は生真面目に考え込んでから、口を開いた。

「まだ決まってねぇ。それはこれからゆっくり決めればいいだろ」

じっとりと濡れた頬をシャツの袖で強引に拭われて、ひりひりと痛む頬を臨也は指先で押さえた。
殴られたり何かを投げつけられたり、酷ければ本気で殺されるかもしれない。
そのくらいの覚悟を持って思いのままに口を走らせたのに、待っていたのはやっぱり少しだけ優しい静雄の声だった。
目の前でポケットから携帯を取り出す男を、信じられないと慎重に観察するけれど結果は変わらない。
臨也の姿を前にして、こんなにも長く感情を平静に保っている静雄を見たことがない。

「おい、何呆けてんだよ。さっさとてめぇのデータから俺の番号消せ」
「へ、…?」

臨也に向かって自分の携帯を突き出し、静雄は赤外線通信の待機画面をちらつかせた。

「そんで、ちゃんと始めんだよ」


突然の電話と、静かに続く夜。
思いもよらぬままに走りだした現実に、気付かない内に小さな期待が生まれた。
また今夜も、もしかすると明日の夜も。
そうやって期待を次々と抱く自分に嫌気がさして、こんなのは自分じゃないと困惑した。
けれど案外、素直に認めてしまえば、なんとも分かりやすいこの感情。
まさか目に見えない、形さえない、そんな電波で繋がったなんてなんとも滑稽だが、この際繋がるのならそれでもいい。

「ほら」

促すように臨也を見つめる静雄の口元は、緩く孤を描いている。
やがて臨也の手の中の携帯が、ちかちかとデータ受信のサインに光った。

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