さみしがりの死に方

雪が、朝の街を冷たい世界に閉じ込める。
いつだって喧噪のやまない街も、この時ばかりはしんと静まり返る。
煩いくらいに色で溢れていた景色も、まるで色あせたように白い。
臨也は毛布にくるまったまま、デスクに座って窓を背にした。

雪の日は嫌いだ。
何もかも、音さえも吸い込んで、全てを白く染め上げられた街はただ空しいだけだ。
見上げた空もいつもより遠のいて見えて、ひどく息苦しい。

「とどめを刺された、って感じね」

湯気を立てるコーヒーを片手に、波江が何の感慨もない声で言った。
連日割とハードな仕事が続いたせいですっかり疲れ切っていて、ものを言うのも億劫だ。

「俺にもコーヒー」
「自分で用意して頂戴。私はあなたのお茶酌みじゃないわ。それに、あなたどうせ自分で淹れたコーヒーが一番美味しいと思っているでしょう」

暖を取るためにマグカップを両手で包み込み、波江は臨也に視線を向けることもなく自分の作業に取り掛かった。
面白くない。非常に面白くない。
波江の言葉が正しいだけに、何も言い返せないのも面白くない。
加えて言うなれば、疲労に寝不足なのもよくないし、明け方まで静雄と一緒だったのもいけない。

静雄が臨也と夜明けを迎えることはない。
やることを終えると静雄はさっさと帰ってしまうし、それを引き留める気もさらさらない。
臨也はいつだって、行為の後はとにかくすぐに眠ってしまいたかった。
静雄が去った後に残る、シーツに染みついた静雄の匂いや、部屋に漂う煙草の微かな香りがたまらなく嫌いだった。

だったらなぜこんなことを続けるのかと問われると、それは臨也にも答えようのないことだった。
それでも敢えて答えをこじつけるのなら、なるべくしてなった、としか言いようがない。
静雄と臨也が分かり合うことなんて絶対にないし、まして愛を囁き合うなんてことも絶対にない。
けれどだからこそ、臨也には静雄でなければならなかった。
それがまたたまらなく悔しいし腹立たしいので、普段はあまり考えないようにしているけれど。

「わたし、臨也さんに抱きしめてもらえるなら、死んだっていいのに」

当たり前のことだとでも言うように、うっとりと目を細めて少女が笑う。
ソファーに向かい合う形で座る少女に臨也は綺麗な笑みを見せつけて、小首を傾げた。

「またまた、そんなこと言って。だめだなぁ、命は大切にしなきゃ」
「もう、はぐらかさないで下さいよ」

(ああ、馬鹿馬鹿しい)

どうせ、世界は寂しいものでしかない。
どんなに抱きしめ合っても、結局はひとりでしか生きられない。
それなのに、抱きしめ合うことに一体なんの意味があるというのだろう。
例えばそれで、手の中に確かなものが証として残るのならまだいい。
けれど実際残るのは、離れていく感触と、薄れていく温かさだけだ。
まるで、確かにそこに存在しているのに、決して手にすることのできない雪のように。

とんだ茶番だと思いながら、臨也にとっては一つの駒に過ぎない、あどけない少女を玄関まで見送る。
やっぱりこんな雪の降る寒い日に、真面目に仕事なんてするもんじゃあない。
臨也は早々に仕事を放棄してしまいたい思いにかられながら、眠気で重たくなった目をモニターに向けた。
それでも仕事をする気になれず、肩肘をデスクに突いて、ぼんやりともう片方の手のひらを見下ろした。
そうして、さして仕事も捗らないままいつの間にか夜が訪れた。
重たい体を机に預けて突っ伏すと、非常に良いタイミングで行儀よくインターホンが鳴る。
無視を決め込もうかとも思ったけれど、玄関の修理代を支払う少し先の自分を想像して、うんざりしながら立ち上がった。

「ねえ、俺今日はそういう気分じゃないんだけど」
「俺には関係ねぇ」

扉を開けると、現れたのはいつものバーテン服。
無遠慮に乗り込んできた静雄は、有無を言わさず臨也の腕を掴んで歩き出す。

「ていうか、昨日の今日ってシズちゃんどんだけ飢えてんの?それともそんなに俺のこと離したくないの?」
「ばっ…!んなワケねぇだろ」

腕を掴む手に指を沿わせて笑顔で言うと、静雄は慌てて腕を撥ねた。
予想通りの反応に幾分か気分が上昇したけれど、予定外だったのは、もう目の前がベッドだったことだ。
押し倒されて、ふわりとベッドに背中を受け止められる。
覆いかぶさってくる体を無理にでも突き返さなかったのは、あまりに疲れていたからなのか、それとも。
頬に沿わされた大きな手は、とても雪の中を歩いてきたとは思えないほどに、温かかった。

ゆっくりと降りてくる唇が、臨也のそれをぱくりと啄んだ。
一度瞬きをする間に、今度はもう一度、そっと触れるだけ。
そうしてずるずると引きずり込まれていくように、合わさる熱は深まる。

「ん…、っふ……」

鼻の辺りを擽る金髪にむずむずしながら、臨也は目を閉じて、体の力を抜いた。
体が酷く重くて、静雄の強引さに抗う方が体力を消耗しそうだ。
いっそこのまま流れに身を任せ、とっとと追い返せば案外ぐっすり眠れるかもしれない。
どうせいつもの夜が始まるだけで、夜明けが来る前にはまた一人だ。
ずきりと刺すような胸の痛みには、気づかないフリをする。

抵抗することを諦めて静雄の背中に腕を回すと、湿った音を立てて唇が離れた。
煮え切らない表情でこちらを見下ろしながら、静雄の親指が数度目元を行ったり来たりする。
何がしたいのやらさっぱり分からず、黙ってされるがままになっていると、静雄が唐突にため息を吐いた。

「……やめた」

上体を起こしてそう言った静雄に、臨也は反射的に噛みついた。

「はあ?何それ、どういうこと?萎えたって言いたいわけ?人が嫌がってんのに強引にことを進めたかと思えば、今度はやめるだなんて、横暴なのもいい加減にしてよ」

人が諦めて身を任せようとした途端、手のひらを返すなんてとんだ嫌がらせだ。
もう、振り回されるのはうんざりだ。
無駄に広く感じるベッドで朝を迎えるのも、うつ伏せたシーツに残る匂いに目を閉じるのも、何もかも。

そこまで考えて、臨也は唖然とした。
これではまるで、この男がいなくなった後の時間を、寂しいと感じていると認めるようなものだ。
こんなのは違う、こんなのは自分じゃないと思うのに、益々臨也の心は一人の寒さを覚える。
静雄と別れた朝が嫌いなのは、静雄という化け物を愛せないからだったはずなのに。

「目の下にそんなクマ作ってよく言うぜ。いいから黙って寝ろよ」
「ちょ、ちょっと!何すんの」

ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる手に抵抗すると、ほら、とあっという間に布団を肩まですっぽり掛けられて、手際良くカッターシャツとズボンだけになった静雄が臨也の隣に横たわった。
予想外の展開に、思わず閉口する。

「どうしてシズちゃんまで寝るの」
「んだよ、じゃあ俺に床で寝ろってのか?」

(いやいやいや、俺が言いたいのはそうじゃなくって…)

なんだってこの男は、当然のように人のベッドに横になっているのだろう。
今まで一度だってこんなことはなかったというのに、今日という日に限ってこれまでと違う行動に出るなんて。

眠気で空回る頭が混乱から抜け出せない内に、今度は静雄の腕が首の下に差し込まれた。
そのままころりと腕の上を転がって、胸元に抱き寄せられた。
途端に強くなる嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、何故かふっと気持ちが落ち着いていく。
自然と伸びた手が、静雄のシャツを無意識の内に掴んだ。

「相変わらず冷てぇ手だな。家に居たとは思えねぇ」
「シズちゃんが無駄に熱いんだよ、無駄に」
「……うぜぇ」

くあ、と欠伸をした静雄が呆れたようにそう言って、静かに目を閉じた。
背中に回された手のひらが、とんとん、と臨也の背を撫でる。

(だめだ…、ほんとうに)

本当に、このままでは眠ってしまう。
初めてこんな風に、なんの意図も持たずにこの腕に囲われている。
普段は乱暴な腕もこの時ばかりはただただ優しくて、臨也をやんわりと甘やかす。
薄いシャツ越しに伝わる体温が、抗いようのない充足感が、臨也の空白を埋める。

静雄の胸に鼻先を擦りつけて、臨也はとうとう目を閉じた。
認めたくはないけれど、臨也は今、雪に閉じ込められた街を見下ろした朝に感じた、言葉にし難い息苦しさをすっかり感じなくなっていた。
静雄の鼓動のリズムと、触れる手の感触と、そして熱いくらいの体温が、言葉もなく臨也を絡め捕る。

きっと、静雄の行動には大それた理由などなくて、単なる気まぐれだ。
数日経てばまたいつものように、臨也を残してこの部屋を出ていくのかもしれない。
臨也を抱きしめて眠った夜なんて、どこにもなかったかのように。
頭を撫ぜた手や、背に回された腕から伝わる温かさも、肺をいっぱいに満たす煙草の匂いも、全部なかったかのように。

(あったかい)

この温もりを知らなければよかったと思うかもしれない。
知ってしまったからには、臨也はこれからも今日を思い返しては、一人の朝を寒いと感じるだろう。
形のないものを享受することを避けていた。それはもう目を瞑ることのできない事実だ。
益々離せなくなってしまうことをどこかで感じていたからこそ、逃げていたのかもしれない。

それでも、嫌いで嫌いでたまらなかったはずのこの体温が、今はただ、優しく臨也を包み込んでいる。
そう、嫌いどころか、いっそこのまま―――。

(……馬鹿馬鹿しい)

ふと、昼間に見たまだ幼さの残る少女の微笑みが蘇り、臨也はそっと自嘲した。
考えたって仕方がない。
自分と静雄が分かり合うことなんて、間違っても絶対にないのだから。
このイレギュラーな夜に理由を見つけることには、それこそ何の意味もない。

今はただ、与えられる束の間に、静かに身を委ねた。



***



腕の中で静かな寝息を立てる臨也を見つめて、静雄は小さく息を吐いた。
情報屋の折原臨也を知る者が見れば、別人だと言われても仕方ないほどに、眠る臨也の表情は幼い。

しっかりと閉じられたカーテンの隙間から、薄らと太陽の光が差し込んで、枕元を照らしている。
時間は恐らくまだ、明け方と言われるような時間だ。
瞼を刺激する光さえなければ、静雄もまだぐっすり眠っていただろう。

(何て顔してんだよ)

緩く開いた柔らかな唇の間から、呼吸の音がすうすうと漏れている。
なんとも警戒心の無い表情だ。
こんな間の抜けた表情が拝めるなら、さっさとこうすればよかった。
思わず吹き出しそうになって、喉の奥がくっくと小さく鳴った。

こうしていると、毎夜ベッドの上から言葉なく静雄を見つめていた視線を思い出す。
あの溶けるような紅い目は、絶対に寂しいと言っていた。間違いない。
臨也は死んだって口にはしないだろうけれど、どんなに鈍い静雄にだって分かる。
目は口ほどに物を言うとは、本当によく言ったものだ。

「素直じゃねぇな」

胸元にしっかりとくっついたままの小さな頭を撫ぜて、静雄は傍らの寝息に自分の呼吸を合わせる。
眠りの淵で、甘やかされることに慣れない臨也の、悔しげな表情が頭をよぎった。

たまに臨也さんを思いっきり甘やかしてしまいたくなるのです。

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