ぴんと張り詰めた空気は冷たく澄んでいて、空に浮かぶ星の瞬きがすぐ傍で感じられる。
あまりに陰りのない空に、臨也はぶるりと黒くて短い毛を震わせた。
思わずその場にうずくまり、長い尾を体に巻きつける。
「寒ぃだろ、ついて出て来なくてよかったのに」
寒空の下、ベランダで煙を吐いていた静雄が、しゃがみこんで苦笑する。
煙草を持つ手とは逆の手で頭を撫でられて、気持ち良さに小さく喉が鳴った。
「今日は星が近いな」
吸って、吐いて。
空を見上げた静雄は、返事がないと分かり切っていながらもこうして呟く。
返事など求めない。けれども話しかけずにはいられない。
そんな柔らかな空気を漂わせながら、一人言葉を紡ぐ静雄はいつも優しい。
せめてもと尾を静雄の手に沿わせれば、目元を和らげてもう一度撫でられた。
臨也は猫だ。
気ままに生きて、時折甘い声で鳴いてそっと近寄り、人間の世話になる。
けれど臨也は決してひと所には留まらない。
誰かに飼い殺されるのはまっぴらだったし、できるだけ多くの人間を観察したいのだ。
そう、臨也は愛すべき人間たちを観察するのが好きだった。
猫というのは、人間を観察するには打ってつけだ。
面白そうな人間を見つけたらしばらく居座り、飽きればふらりと居なくなる。
これまで色んな名前で呼ばれ、色んな人の「ペット」になった。
けれど一度として、一つの場所に落ち着いたことはなかった。
なかったというのに―――。
「やっぱ寒いんだろ、お前」
出て来なければよかったのに、と言いながら、静雄の大きな手が優しく臨也を抱き上げる。
寒くて甘えたいからしっぽを寄せた訳じゃない。
抗議のつもりで僅かに爪を立ててみるけれど、静雄には何の効果もないのだ。
諦めて大人しく腕に抱かれてやると、やっぱり静雄の腕の中は心地よい。
思わず手の甲にすり、と頬を触れ合わせる。
寒さに小さくなっていた体から力を抜いて、臨也は甘く目を細めた。
「吸い終わるまで、ちょっと待ってろな」
語りかけるようにそう言った静雄を見上げて、臨也を抱く大きな腕にしっぽを巻き付けた。
どうせ声に出したって通じないのなら、こうして行動で示す方が静雄にはよっぽど伝わるだろう。
小さく笑った静雄は夜空に視線を移し、白い息と一緒に煙を長く吐いた。
釣られて臨也も空に視線を向けると、そこにはやはり夥しい数の星々が瞬いている。
いつだったか、小さな子供がいる家に数日間世話になった時、母親が子供に話して聞かせた言葉を、臨也はふと思い出した。
もし流れ星を見つけたら、願い事を三度繰り返して唱えるとその願いが叶うという。
その時臨也は、星に祈って何が変わるというのだろうと、人間の不思議な言い伝えに笑ったのだ。
星に願いを掛けるだけで自分の望みが叶うのなら、臨也はきっと、毎晩だって流れ星を探すだろう。
「ニャア」
これだけたくさんあるのだから、一つくらい落としたっていいんじゃない?
そんな不満を込めて小さく鳴けば、静雄は星を眺めたまま煙草を一端口から離し、臨也の喉をふわふわと撫でた。
「わりぃ、もう戻る。もうちょっと我慢してくれ」
そうじゃない、そうじゃないんだ。
伝えたいけれど、伝えられない想いが、臨也の中で隠しようのないほどに膨れ上がる。
本当は戻りたくなんてない。
温かい部屋の中に戻ってしまえば、寒さを理由に静雄に抱かれていることができなくなる。
できることならこうしてずっと静雄の腕の中で空を見上げて、撫でられていたい。
合わさらない視線を恋しく思いながら、臨也は深く、静雄の胸に顔を埋めた。
息を大きく吸い込むと、静雄の匂いと煙草の匂いが小さな肺をいっぱいに満たす。
(シズちゃんが、すき)
すき。
それは臨也の中に、初めて芽生えた感情だった。
人間を愛してはいたけれど、愛はこんなにも臨也の胸を締めつけたりはしなかった。
苦しくなると分かっていながら、臨也は静雄の傍を離れられない。
静雄の腕の中は心地よくて温かくて、いつだって“猫の臨也”を受け入れてくれるけれど、静雄の心は決して臨也の方を向いてくれることはない。
どんなに近くにいても、どれだけ同じ時間を過ごしても、臨也は猫で静雄は人間だ。
言葉さえ伝えることができないのに、この想いが静雄に届くわけもない。
だからこんな無意味な慣れ合いなど捨てて、静雄のことを忘れて、また違う場所で生きればいいと分かっているのに、どうしたってそれができない。
だからきっと、星が流れたら臨也は願う。
(俺を、シズちゃんと同じ人間にしてください)
想いを返してもらいたいなんて、そこまで強欲に願ったりはしない。
だからどうかせめて、この感情を言葉にして、伝えたい。
臨也はそっと目を閉じて、流れない星に祈る。
形にして、音に乗せて吐き出さなければ、膨らみ続ける想いに窒息してしまう。
星は、流れない。
「冷えちまって悪かったな」
いつの間にか煙草を灰皿に押し付けた静雄が、ガラス戸を引いて、部屋の中へと腕を差し出した。
フローリングに足をつけると、ますます遠のいた静雄の瞳が臨也からそっと離れた。
途端に冷え切った体を自覚してぶるりと震えてから、臨也はもう一度窓の外を仰ぎ見た。
瞬く幾千の星たちは、それでもただ、そこにあるだけだった。
過去に書いた自分の作品のオマージュ。
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