星のカケラを拾いあつめて

迷信に過ぎないと分かってはいても、流れ星を待ち続け、祈らずにはいられないほど、俺は人間になりたかった。
正直なところ、猫の暮らしの方が性に合っていると思うし、人間の生活に憧れていたわけでもない。
俺が人間になりたいと願った理由はただ一つ。
平和島静雄と同じ目線で、同じ世界を見てみたかった。
たった一言、「好きだ」と伝えたかった。

けれど、星は流れなかった。
ひっそりと願いはするけれど、叶うはずもないと諦めていた。
ただ平凡に、これまで通りの時間が流れて、与えられる優しい手を享受する日々が続いた。

そんな日常が、唐突に変わったのはほんの数分前のことだ。

「いざ、や…?お前、臨也なのか?」

シズちゃんの声が恐る恐る俺に投げかけられるけれど、俺は毛布にくるまったまま動けない。
あまりに動揺して、思わずシズちゃんをベッドから蹴り落としてしまったくらいだ。

俺はいつもの通り、シズちゃんの枕元に小さく丸くなって、眠ったはずだった。
俺よりも数倍大きくて、ちょっとあどけない表情で眠るシズちゃんをじっと眺めてから目を閉じたことも覚えている。
けれど目が覚めると、もっとずっと大きかったはずのシズちゃんの顔は、小さくなってしまっていた。
いや、正確に言えば、俺が大きくなったのだ。
大きくなった、でもまだ語弊がある。
端的に言ってしまえば、俺は人間になってしまっていた。

「なあ、おい、聞こえてんだろ?もしかして、俺の言葉分かんねぇか」

ちょっとのことですぐにキレて、部屋の中のものを壊してしまうシズちゃんにしては、根気強く俺に声をかけてくる。
この時俺はらしくもなく動揺し切っていたけれど、耳によく馴染んでいるシズちゃんの声が俺の名前を呼ぶのを繰り返し聞いている内に、少しだけ落ち着きを取り戻した。

「臨也」

毛布から顔だけを出して、視線だけでシズちゃんを見る。
シズちゃんの表情は何とも言い難い、難しい表情だ。
俺が混乱しているのと同じように、シズちゃんも混乱しているらしい。

「言葉は分かるんだな?」

床の上から俺を見上げるシズちゃんに、小さく頷く。
すると、シズちゃんは項垂れて大きくため息を吐いた。
今の俺は確実にシズちゃんを困らせているし、きっと面倒臭いことになったと思っているに違いない。
そりゃあ俺だって、もし急にシズちゃんが猫になったとしたら今のシズちゃんと同じような反応をするだろう。

なぜ人間の姿になどなってしまったんだろう。
こうなってしまえば、もう俺はシズちゃんのペットではいられない。
かといって人間と同じように行動することもできないだろうし、シズちゃんに迷惑をかけるばかりだ。

確かに俺は「人間になりたい」と漠然と願っていたけれど、実際に人間になった後のことを深く考えてはいなかった。
ただただ手の届かない夢を見るみたいに、胸の内に溢れる想いを自分の言葉と声で伝えることができればいいと。
空想を描くも同然。「もしも人間になれたら」と具体的に考えるには至らなかった。
だって、猫が人間になれるはずがないのだから。

「別にお前ぇのこと責めてるんじゃねぇんだ、だからそっから出てこいよ」

再び毛布で頭をすっぽりと覆った俺に、シズちゃんが慌てた様子でフォローを入れる。
不器用だけれど、どんな時も俺に差し出される大きな手のひらが俺を誘う。
俺は躊躇する心を振り切って、シズちゃんの腕の中へ飛び込んだ。

「…っと」

ついついいつもの調子で勢いよくベッドを蹴ってしまったけれど、シズちゃんは難なく俺を抱き留めた。
ああ、やっぱりシズちゃんの匂いはとても落ち着く。
胸元に鼻っ面を擦り付けると、より一層シズちゃんの匂いが強くなる。
肺をいっぱいに満たすその匂いに漸く混乱が溶けてきた俺の頭に、シズちゃんの手が触れる。

「仕草はまんま猫だな、お前」

顎の下をシズちゃんの指が擽ると、俺は思わず目を細めて喉を鳴らす。
気持ち良すぎて、とろとろに溶けてしまいそうだ。
ああ、なんだ。人間になってもそんなに変わらないじゃないか。
シズちゃんの口元に舌を伸ばしかけた時、ふいにシズちゃんの両腕が俺の肩を掴んだ。

「……舐めんのはいいけどよ、とりあえず、そろそろなんか着てくれ」
「………っ!!!!」


そうだった、人間は服を着るんだった!
その後、恥ずかしさのあまりしばらく毛布から顔さえ出せなくなったので、とうとうシズちゃんに怒られたのは言うまでもない。



***



シズちゃんが毎日とっかえひっかえ来ている白いシャツと、紐で結べるハーフパンツとやらを着せられて、俺は慣れない椅子の上に座っていた。
耳や尻尾はすっかり消えてしまったので、人間の服を着るのは容易い。
ただ、どうにも居心地が悪いことだけは確かだ。

ボタンなんてとめられないので、シャツを羽織らされたまま茫然としていた俺のために、シズちゃんがとめ方を教えてくれて今に至る。
この姿をしていると忘れがちだが、俺は本来猫なので物を掴むという行為さえ経験がない。
噛んだり引っ掻いたり引き寄せるくらいならできるけれど、人間の手や口では上手くできなかった。

「腹減ってねぇか?」

時刻は11時。朝から一悶着あったせいで、朝ご飯にはまだありつけていない。
シズちゃんはトーストを焼く傍ら、俺の目の前に牛乳パックをちらつかせた。
俺がこくこくと小さく頷くと、シズちゃんはすぐに俺のために牛乳を注いでくれた。
途端に空腹を自覚していそいそと容器に舌を伸ばしたところで、俺の目の前に置かれている器がが、いつものご飯用の器ではないことに気付いた。
これは、いわゆるマグカップというやつだ。

「舐めるんじゃなくて、飲むんだよ。こうやって持て」

シズちゃんが手本を見せてくれるものの、マグカップなんてせいぜい眺めている程度のものだったので、眉を寄せてカップとシズちゃんの手元を数度比べて見る。
するとシズちゃんが俺の背後に回り、膝の上に乗せたままだった俺の手を掴んだ。

「指開け。こうだ、こう」

シズちゃんは俺の手に自分の手を添えて、テーブルに置かれたマグカップの持ち手に右手を、左手はカップのカーブに沿わせて、ぎゅっと上から握り込んだ。
なるほど、コップやカップはこう使えばいいのか、と冷静に納得する傍ら、俺の手にぴったりと触れているシズちゃんの手の温度に体温が上昇する。
俺の頭をいつも撫でていたあの大きな手が、そう変わらないサイズで俺の手に合わさっていることが不思議でたまらない。

「やればできるじゃねぇか」

おそるおそるカップの淵に口をつけて牛乳を飲んだ俺の頭を、シズちゃんは満足げな表情でがしがしと撫でた。
ぶわりと幸福感が俺の中で膨れ上がって、これが「同じ人間になった」ということなのかと、この慣れない感覚に少しの間だけ酔った。

牛乳で空腹が満たされてようやく一息着いた俺は、椅子の上に膝を折って、いわゆる三角座りの状態で部屋の中をあっちこっちと動くシズちゃんの様子を見ていた。
今日は人間にとってはお休みの日らしいので、シズちゃんは洗濯に忙しい。
俺はと言うと、猫の姿だった昨日までと同じように、人間って面倒臭いなぁと観察に勤しむ。
早く終わって俺のことを構ってくれればいいのに、といかにシズちゃんを誘惑するかをのんびり考えた。

猫の時は尻尾を絡めたり、足元をぐるぐる廻ったり、他にも色々と構ってもらうための愛らしい仕草を俺はこれ見よがしに見せつけてきた。
けれど人間の格好でこれらを実行するには、少しばかり厳しい。
今の俺には尻尾はないけれど、その代わりに長い手足がある。
街中で腕を絡めている人間を見かけたけれど、これはシズちゃんにも有効だろうか。

観察してきた様々な人間を思い浮かべていると、同じ形と色の服がずらりとベランダに並び終わって、シズちゃんがリビングに戻ってきた。
さて、作戦決行と意気込んだ俺の前をシズちゃんはするりと通り過ぎて、クローゼットからいつもの白と黒の服を取り出した。
それはシズちゃんが外へ出ていく時に決まって来ている服だ。

「お前、一人で留守番できるよな?」

ちょっと、それどういうこと!
俺は思わず鳴き声を上げそうになったけれど、よく考えてみたら今は人間なので鳴き声にはならない。
じゃあ、一体今の俺が声を出すと何が音になるのだろう。
唐突に頭の中に生まれた疑問を追及するのは後回しにして、俺はせっせと出かける支度をするシズちゃんを目で追う。

「後輩に仕事教えるって約束しちまったんだよ」

お尻のポケットに財布と携帯電話を突っ込んで、ガス栓や鍵のチェックをして回るシズちゃんは、完全に外出モードだ。
確かに俺はそこらの猫とは違って頭脳明晰なので、お留守番なんてお手のものだ。
でも、こんなことがあった日に俺を独り残して誰かと会うだなんて、これが怒らずにいられるだろうか。

かと言って、甘えたな子犬のようにすり寄って連れていけと強請るなんてプライドが許さないし、大人しく帰りを待っていてやるものなんだか癪だ。
せめてもの意思表示にと、俺はシズちゃんが行ったり来たりしている方向に背を向けて、小さく丸まった。
人間の姿はとても丸まりにくいけれど仕方がない。
俺の背中から漂う寂しいオーラを、さすがのシズちゃんだって無視できないだろう。

「臨也?」

普段はシズちゃんが出かける時は、一応玄関までお見送りをしてあげているので、俺がついてこないことに気付いたシズちゃんが俺の名前を呼ぶ。
よし、その調子だ、と俺がじっと背中を向けたまま動かずにいると、シズちゃんの足音がゆっくり近づいてくる。

「ちゃんと待ってろよ、魚買ってきてやっから」

ぽすん、と頭に乗せられた手が数度髪の上を滑って、シズちゃんは方向転換して再び玄関を目指して歩き出す。

このままじゃ本当に置いて行かれてしまう。
何時まで待てば帰ってくるんだろう。もし、また身体に変なことが起こったらどうしよう。
一瞬で俺の頭の中を色んなことが駆け巡って、心臓の音が煩くなる。
シズちゃんの家に住みつくようになるまではずっと一匹きりで生きてきたけれど、こんなに心細さを感じたことなんてなかった。
遠のいていくシズちゃんの足音を聞いていられなくなって、俺は衝動的にシズちゃんの腕を掴んでしまった。

「し、……!」

振り返り、目を丸くしたシズちゃんの表情さえ、俺には見えていなかった。

「シズちゃん……っ!!」

二本脚で立って、俺の指はしっかりとシズちゃんの腕を握りしめている。
いつもいつも、伝わらないと分かっていても語りかけずにはいられなくて、繰り返し呼んだシズちゃんの名前が、初めて音になる。
耳慣れない涼やかな声が、俺の喉から紡がれた音だと気付いたのは、シズちゃんが指摘してからだ。

「お前、今喋ったか?喋ったよな?」
「いっ、痛いよ」
「やっぱ喋ってんじゃねぇか。お前喋れたのか?」
「分かんないよ、そんなこと」

俺の両腕を捕まえたまま詰め寄るシズちゃんにちょっとだけ驚きながら、俺は俺が今シズちゃんに言わなければならないことを言葉にするので精一杯だ。

「ねえ、シズちゃんなんで俺のこと置いてくの?俺、こんななのに、またなんかあったらどうしたらいいの?お腹が減ったら何食べるの?誰かに見つかったら?」
「おま、」
「こんなに俺が不安でいっぱいなのに、シズちゃんは俺より仕事の方が大事なんだ…。俺のことなんてどうせ都合のいい毛玉としか思ってないんだ…!シズちゃんのばか!ばかー!!」

動揺するシズちゃんを余所に、俺は渦巻く不安と不満を手当たり次第ぶつけると、興奮したせいか涙まで浮かんできて、情けなくなって余計に涙が出た。
もしもシズちゃんに俺の声が伝わるなら、「好きだ」と言おうと思っていたのに、こんなに可愛くないことばかりが口から転がり出てしまって、もう穴を掘って埋まってしまいたいくらい悔しいし恥ずかしい。

こんなはずじゃなかったのに、俺はなんてばかなんだろう。
せっかく人間になれたのに、留守番もできないようじゃ、シズちゃんはいらないって言うかもしれない。
猫のくせに人間になるなんて気持ち悪いと、追い出されるかもしれない。
俺はなんて面倒くさいんだろう。
そう思うと涙が次々に溢れて、俺の頬は涙でべとべとになってしまった。

「お前ぇがそんなに心細かったなんて、思わなかった。お前、割と普段からふてぶてしい猫だったしよ、もう平気なんだと思っちまった」

悪かったな、なんて言いながらシズちゃんに抱き寄せられて、頭をぐりぐりと撫でられた。
やっぱり不思議とシズちゃんの体温は俺を気持ちよくさせてくれて、嗅ぎ慣れた匂いに俺の涙も少しだけ勢いを失う。

「俺はあんまりお前に好かれてねぇんだと思ってたけど、案外お前、俺のこと好きだよな」
「な……っ!!」
「素直に甘えりゃあもっと可愛いのに、勿体ねぇな」
「べ…、別に可愛くなくっていいもん。綺麗って言われる方がいいし」
「そーかよ」

一定のリズムで俺の背中を撫でるシズちゃんの手の動きに、涙はいつの間にか止まっていた。
猫の姿の時も、俺の毛並を撫ぜるシズちゃんの手が俺は好きだった。
何度も何度も撫でられていると、背中が温かくなってきて眠たくなってくる。
それに、今はいつもと違ってシズちゃんの体に俺の体がぴったりとくっついていて、そこからも熱が伝わってきて、ひどく安心する。

「炬燵行くか?眠ぃんだろ」
「ん……、でも、シズちゃん出かけるんでしょ」
「しゃーねぇから、今日は拗ねてる飼い猫のご機嫌取りしてやろうと思ってな」

なんだよ、シズちゃんも十分素直じゃないじゃないか。
仕事より俺を優先してくれたことを内心嬉しく思いながらも、泣いてしまった気恥ずかしさから、心の中でぶつくさと言い訳や負け惜しみの文句を並べ立てる。

でも、俺は「良かった」と心の底から安堵した。
シズちゃんには、俺のことを追い出す気はないらしい。
突然人間になってしまった変な猫だけれど、俺はまだしばらくシズちゃんの飼い猫でいられるようだ。

「いつもなら昼寝してる時間だろ?寝なくていいのか」
「……いい。もうちょっとシズちゃんとぎゅってしてたい」

鼻先をシズちゃんの服に埋めて、胸いっぱいに息を吸い込む。
見上げてばかりだったシズちゃんと、俺は今抱きしめ合っている。
どんなに広げたって長さの足りなかった腕も、しっかりとシズちゃんの背中に届くのだ。
眠ってしまって、起きた時には猫だったなんてことになったら、俺はきっと一生後悔する。

シズちゃんと話して、シズちゃんと同じ高さで世界を見て、シズちゃんを抱きしめて。
他にももっとたくさんやってみたいことがあるのに、眠ってなんていられない。

「つーかお前、まさか猫の時からずっと俺のことそう呼んでたのか」
「なに?シズちゃんって?」
「それだ、それ。こっぱずかしいからやめろ」
「えー、だってシズちゃんはシズちゃんだし。シズちゃんも俺に名前を付けたんだから、俺だってシズちゃんに名前付けてもいいでしょ」
「んだよ、その理屈は」

呆れながらも俺の耳の後ろや顎の下を指先で擽るシズちゃんは、満更でもなさそうな表情で俺を見下ろしていた。
少し背伸びをすれば簡単に届いてしまう距離に、シズちゃんの顔がある。
その内きっと、鈍感なシズちゃんの唇も奪ってやるのだ。

そして伝えたい。
俺は、シズちゃんだけの猫になりたいんだって。

「だって、俺はシズちゃん家の猫だもん」

にゃんにゃんにゃんの日記念でした。

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