手の中の小さな紙切れを握りしめたまま、静雄は雪がちらつく夜の道を一人歩いていた。
気持ちが急いて、自然と早まる足がぎゅ、ぎゅ、と雪を踏み固める音を一定の間隔で繰り返す。
吐く息が白く、吸い込んだ空気の冷たさにやられて次第に肺の中が冷え切っていく。
肌がぴりぴりと震えるほどの厳しい寒さのせいで、ほとんど人通りもなく、街灯が虚しく点々と明かりと灯している。
日の落ちた細い通りを足早に抜けながら、静雄は徐々に頭の中だけが熱く震え上がっていくのを感じていた。

「俺が、人間だって…?」

最後の手紙の内容を思い出す度に、激しい怒りがこみ上げる。
 “化け物”と言って憚らず、罵り続けたのは臨也だ。
そう言い返してやりたくても、肝心の本人は行方知れず。
文句をぶつけることすら叶わない。

何が何でも静雄を人間として認めなかった臨也が、自ら静雄を人間と定義するなんて、異常過ぎる。
おまけに臨也の挑戦的な態度も、卑怯なやり口で吹っかけられる無意味な喧嘩も、全て静雄を普通の人間にするためだったなんて、誰が想像できただろう。
どんなに記憶を辿ったって、そんな節は見当たらないどころか、憎しみを込めた目が静雄を卑下し、唇を歪める姿ばかりが浮かび上がる。
自ら手を下してまで静雄を人間にすることに、一体どんな価値があったというのか。
なぜ人間という定義に当てはめる必要があったのか。

(くそ、全然わかんねぇ!)

がしがしと髪をかき混ぜて、静雄はとにかく足を動かした。
頭の中で新羅の言葉が渦巻いて、酷く落ち着かない。
認めたくないのに、認めざるを得ないほど頭の中を臨也のことが埋め尽くしている。
一方的に送り付けられた手紙が時を順に追っていたのと同じように、臨也と関わり合った時間が一つずつ記憶から呼び覚まされている。

そうだ、今まで忘れられていた方がおかしかったのだ。
臨也と過ごした時間は、静雄にとってあまりにも鮮烈すぎた。
忘れられるはずがない。忘れようとしていたから、思い出さなかっただけだ。

臨也が初めて静雄を“化け物”と呼んだ日から、もう十年ほど経つ。
出会ったばかりの頃は毎日が喧嘩と殺し合いの繰り返しで、お互い加減を知らない者同士の見境のない喧嘩は相当悲惨なものだった。
来る日も来る日も目が合うだけで「死ね」と言い、臨也もそれに応えるように「化け物」と言って罵った。
そんな変わらない日々がいつの間にか当たり前の日常と化した高校三年の秋。
それまでの静雄と臨也の関係を大きく揺るがす出来事があった。

今でも絶対に忘れない。
臨也の紅い瞳がいつになく揺れて、頼りなく静雄を捕まえた手が小さく震えていたことを。
そんな震える手を誤魔化すために、あからさまな誘惑を仕掛けてきた臨也に、結局静雄は応えてしまった。
臨也に誘われるまま乱暴に身体を暴き、掻き抱いて、蹂躙した。
なぜ憎む相手を抱いたのかなんて、正直分からない。あの頃は若かったのだ、と言って流せないほどに、あの時のことをずっと引きずっているのは確かだ。

酷く後悔した。抱いたこと自体を悔やんだのではなく、あんな風に成り行きで流されるままに抱いてしまったことを後悔していた。
一時の気の迷いとして片づけてしまえるように誂えられていたのでは、あの時の出来事を綺麗に流し去るしかなかった。まるで何もなかったかのように振る舞うしか、静雄にはできなかったのだ。
今思えばそれも臨也の考えの内だったのかもしれないけれど。

(結局、理由も聞けやしなかった)

どうして「抱いて欲しい」などと言ったのか。
静雄はずっとそれが気になっていた。
聞きたくて、けれどもう次の日には非日常は過ぎ去り、今まで通りの日常が横たわっているだけで、問い質す隙も与えられなかった。
そうして静雄は、忘れるしかなくなってしまったのだ。
臨也にほんのひと時でも特別な感情を見出していたという事実を、すっかり仕舞い込んでなかったことにしてしまった。
もしもあの時、臨也が一言でも静雄に好意を示す言葉を告げていたなら、きっと今の二人の関係は変わっていただろう。

静雄はため息を吐き出して、考えることをやめた。
考えるのは苦手だ。第一、臨也の考えることなど静雄に理解できるはずもない。考えたって無駄なのだ。考えて分からないのなら、とにかく行動するだけ。

釈然としないままひたすら足を動かし、新羅に渡された住所にたどり着く。
どこにでもある一般的なマンションが建っている住宅街だった。
エントランスを通り抜け、エレベータに乗り込んで、上階を目指す。
このマンションに誰が待っているのかは知らないが、臨也の居場所に繋がる確かな情報を何としても手に入れなければならない。
静雄の臨也に対する常人離れした感覚は、この半年ほどですっかりと鈍ってしまっていた。
指定の部屋の前で立ち止まり、インターフォンを押すと、程なくして少し年上だろうか、と思う女性の声がした。

『誰?』
「……平和島」

静雄、と続けようとした静雄の言葉を奪い、女が続けた。

『あら、珍しいお客様がいたものね。平和島静雄だなんて』

ロックが解除されて、扉が開く。
現れたのは長い黒髪と冷たい眼差しが印象的な女は、観察するように静雄を上から下まで見て、それから室内へと案内した。
室内はどこにでもあるマンションの中を、簡易的な事務所として利用しているようで、この女の部屋というわけではなさそうだった。

「ここを誰に聞いて来たの?」
「新羅に聞いた」
「なるほどね。あの男なら知っていてもおかしくないわ。それで?何の用かしら。生憎ここに臨也はいないわよ」
臨也の名前が女の口からいきなり飛び出て、確かにこの女が臨也を知っていることは分かったが、最終手段として残ったのがここへ来ることだった理由は分からない。
静雄は首を傾げながら、腕を組んで女を見た。

「お前、ノミ蟲とどういう知り合いだ」
「呆れた。知らずにここへ来たの?私はあいつの秘書よ」

秘書なんて大層なものをパートナーとして用意していたとは知らず、静雄は思わず眉を歪めた。
つまりこの女は臨也と最も近い場所で仕事をしていた人間になる。

「まあ、雇い主の臨也がどこにいるのかも分からない今では、秘書と言えるかどうか怪しいわね」
「ノミ蟲の居場所を知ってんじゃねぇのか」
「知らないわ。給料が勝手に振り込まれているところをみると、残念ながらまだ生きているようだけど?」

生きている、と聞いてわずかに肩の力が抜けた。
安堵した自分自身が嫌になるが、一々自分の感情を否定して回るのももううんざりだ。
この女が知らないというのなら、もう当ては一つもないことになる。
どうしたものかと頭を掻いた静雄に、でも、と目の前の女が思案しながら呟いた。

「あいつがいなくなった後、割とすぐに大体の見当は付けたのよ、居場所。ただ、あんまり遠いからわざわざ出向いてやるのも面倒で、確かめていないんだけど」

それでもよかったら、と静雄を何の感情もない目で見つめる女に、静雄は二つ返事で頷いた。
この際、少しでも情報があるならなんだってよかった。
進む方向が分からないのが一番じれったい。どんなに頼りない糸でも、指針があるだけ随分と気分がマシだ。

「あなたなら、あいつを連れ戻せるかもしれないわね」

意味深にそう言った女は、最後まで温度のない目で静雄をマンションの一室から見送った。
すっかり夜も更けて、街が眠りにつく時間が訪れる。
益々寒さを増した街を、静雄は再び小さな紙切れを片手に歩く。
手の中の紙が示す土地は随分と西を示していて、今夜はもう、家に戻って大人しく眠るしかないだろうと静雄は自宅を目指す。

本当にこの文字が指す先に、臨也がいるとは限らないが、この半年間感じていた妙な物足りなさが、確実に埋まっていく感覚が静雄を満たす。
どうやらあの黒い背中を追いかけることが、すっかり体に染みついてしまっているらしい。
誰に向けるともなしに小さく苦笑して、静雄はコートの襟に首を埋めた。

池袋は今日も、気味が悪いほどに平和だ。
新羅が言うように、この平和を愛しいと思うなら静雄は臨也を追いかけるべきではない。
臨也のことなど忘れて、それなりに楽しく、それなりに穏やかな日々を静かに過ごして生きればいい。
そう分かっているけれど、どうしても体が疼く。
危険な臭いを嗅げば嗅ぐほど、歓喜に心臓が踊る。
退屈な日々なんて捨ててしまえと、静雄を駆り立てる。

「すっかり毒されちまった」

両手をコートのポケットに突っ込んで、雪が延々と降り続ける空をぼんやりと見上げた。
 
もう後戻りできない。
それでも、追い掛けずにはいられない。
見つけ出して、捕まえて、聞きたいことが山ほどある。
あの時抱かれたいと言った理由も、面倒くさい方法を取ってまで静雄を人間にしようと思った訳も、姿を消しながら静雄にだけは手紙を寄越した真意も。

何もかも、必ず問い質して吐き出させてやる。
臨也を彷彿とさせる暗い空を睨みつけて、静雄は迷いを完全に断ち切った。

[戻る]