「ん……」

ダイヤルボタンに指を乗せた時、臨也の唇から吐息とも取れるほど小さな声が漏れた。

「起きたのか?」

臨也の顔を覗き込むように覆いかぶさる。
瞼が小さく震え、やがて印象的な紅い瞳が開かれた。
静雄を通り越し、どこか遠くをぼんやりと見ている臨也は、自分がどこにいるのかさえ理解していないようだった。

「おい、しっかりしろ」

熱を帯びた頬に手のひらを当て、声を掛ける。
臨也の目線はしばらく空虚を漂って、ゆっくりと静雄が触れた左頬へと流れる。
覚醒するかに見えたが、臨也が自分の頬に触れる手を認識したかと思うと、その手を打ち払い恐怖に顔を歪ませて声にならない声を上げた。

「ひっ……!いや、いやだっ…あ、く、来るな……っ」
「お、おい!ノミ蟲、落ち着けって」

ソファを蹴って静雄から逃れようとする臨也は、とてもまともに静雄を認識しているとは思えない。
これまでに二度見た、パニックに陥っている臨也の状態とよく似ているが、今までは臨也が怯えていた相手は新羅だった。
新羅を新羅だと分かって尚怯えていたのかどうかは定かではないが、少なくとも静雄は第三者の立場だった。
だからこそなんの躊躇いもなく臨也に手を伸ばすことができた。

だが、今回は違う。
臨也が今逃れようと必死にもがいているのは、静雄に対してだ。
静雄でなければだめだ、と言った新羅の言葉にどこかで過信していたのだろうか。
臨也に拒絶されることに、これほど痛みを覚えるなんて考えもしなかった。
身体を小さく抱え込み、目に見えて震え始めた臨也を前に、静雄はどうすることもできず、ただ見守るしかない。

「ふぅ…、う、んぅ……っ!」
「ノミ蟲?」

臨也が両肩を抱いていた手を解き、口元を覆って呻き声を上げ始め、静雄は様子を窺うように俯いた顔を覗き込む。
苦しそうに短い呼吸を紡ぐ臨也は、嘔吐を堪えているようにも見える。
両目に涙を滲ませて小刻みに震える臨也に、静雄は見かねて腕を伸ばした。
先ほどまでの戸惑いも、恐れも、直感による衝動には敵わない。

「吐きそうなのか?」

臨也の身体を引き寄せ、背中を撫でながら話しかけるが、臨也の耳には届いていないのか、反応がない。
それでも、拒絶されなかったことに小さく安堵して、静雄は臨也に言葉を投げ続ける。

「臨也、俺の声聞こえてんだろ!」
「……ん、っ……」

両手できつく口元を抑えたまま、ようやく臨也がゆるゆると静雄の方を向く。
身体を襲った異常に正気を取り戻したのか、目はしっかりと焦点を静雄の顔に合わせている。
これなら話になると、静雄は臨也の背に手を当てたまま、臨也に視線を合わせる。

「お前、吐きそうなんだろうが!我慢してねぇで、どっか水が使えるところに……!」

思わず怒鳴るような言い方になったことに少々焦ったけれど、臨也は怯えた様子も見せず、ただふるふると首を左右に振った。

「なんで首振ってんだ!吐いちまった方が楽になる。立てねぇなら俺が連れてってやる!」

ソファの上で固くなる臨也を抱えようと腕を回すが、臨也は首を横に振るばかりだ。
臨也がなぜ首を振って嫌がるのか見当も付かず、苛立ちばかりが募る。
他に方法はないのかと室内を見回し、二階に繋がる階段に新たな考えが浮かぶ。

「だったら、風呂場から洗面器取ってきてやっから、ここで待ってろ」

臨也に回した腕を引き、立ち上がろうとした時、服の裾を引かれて臨也を振り返った。
瞼をぎゅっと閉じたまま苦しげな呼吸音を漏らす臨也は、静雄を掴んだまま再び首を何度も横に振る。
行かないで欲しいと訴えていることにすぐに気づき、この場を離れる訳には行かなくなった。

「……っくそ!」

静雄は腹を据えて、ソファに身体半分を預けた状態で臨也を自分の胸元までぐっと引き寄せた。
この際、幽にもらった大切なバーテン服が汚れようが構ってはいられない。
汗を滲ませながら必死に堪える臨也の薄い背中を、静雄は何度も何度もゆっくりと撫ぜる。
どれほどそうしていたかは分からないけれど、いつの間にか臨也は口元を覆った手から力を抜き、強張っていた身体からも緊張が解けていた。
静雄が臨也の背を撫ぜる間、臨也の指はひと時も静雄の服を掴んだまま解かれることはなかった。



***



あまりに近い場所に静雄の顔があるせいで、吐息が臨也の髪をくすぐり、それがまた臨也の恥ずかしさを煽る。
思えば今まで何度静雄と身体を重ねても、こうして同じ布団の中で朝を迎えることは一度としてなかった。
こんなに近くで静雄の寝顔を見るのは初めてだ。
こうして眠っていれば、いつも眉間に皺を寄せた凶悪な目元は優しげで、無駄に端正な顔立ちが際立つ。
 少しでも身じろげば触れてしまいそうな鼻先に、臨也はとうとう我慢ならなくなって、僅かに後退する。
ベッドのスプリングが軋んだからか、その揺れの振動で静雄が目を覚ました。

「……起きたのか」
「う、うん」

静雄は大きな欠伸をして、無造作に散った金髪をかき混ぜる。
その間も静雄の腕は臨也の身体に回されたまま、解かれる様子はない。

「吐きそうか?」
「…今は、大丈夫」
「そうか、ならいい。ちょっと待ってろ」

真面目な顔で尋ねる静雄に素直に答えると、頭を撫でられて、静雄はあっさりと拘束を解いてベッドから抜け出た。
そのまま寝室を出て行く後姿を黙って見送り、臨也はようやく緊張で固まっていた肩から力を抜いた。
何気なく聞かれた静雄の問いに、そう言えば吐き気がないことに臨也は思い当たる。
ここ数日は眠るとあの夢を見てしまうせいで、覚醒と同時に酷い嘔吐感が襲っていたのだが、今はそれがない。
もっと突き詰めると、その悪夢を臨也は見なかった。
夢も見ないほどにぐっすりと眠れた理由は容易に想像がつくけれど、あまりに情けないので認めたくない。

「俺って結構単純だなぁ」

ベッドの上でごろりと寝返って、うつ伏せた。
清潔に保たれたシーツからは、微かに移った静雄の匂いと温もりが残っている。
胸いっぱいに息を吸い込むと、再び眠気が襲ってきそうになる。
静雄に抱きしめられている時の安堵感が、たまらなく恋しくて、同時に恥ずかしさが半端じゃない。
ただ抱きしめて、今の自分を肯定されただけでこんなにも心の向かう方向が違うのかと思うと、まるでこれは麻薬のようだと臨也は苦笑を漏らした。

「ほら、これ飲め」
部屋へと戻ってきた静雄は、臨也へ湯気の立つマグカップを差し出した。
黙って受け取り中を覗き込むと、中身は牛乳のようだ。
ホットミルクからは、僅かに甘い香りが漂い、臨也は引き寄せられるようにカップの淵に口を付けた。

「冷蔵庫ん中空っぽじゃねぇか。マジでお前何も食ってなかっただろ」

ぶつくさと文句を言いながら、腕を組んで臨也がカップの中身を飲む様を監視しているらしい静雄に、臨也はこっそりと笑みを漏らす。
静雄はきっと、これっぽっちも気づいていないだろう。
静雄がここへ来るまでの数日、臨也は匂いのするものを口元へ近づけるだけでも吐きそうになっていた。
それが今、こうしてホットミルクを飲めているということは、かなりの進歩だ。
それもこれも、全て静雄が臨也に与えた安心感が成したもの。
これが狙ってやっているわけではないと言うのだから、この男は本当に罪作りだ。

「何笑ってやがる」
「ふふっ。何でもない。これ、美味しいよ」

じわりと手のひらに広がっていく温かさに、臨也はベッドの上から静雄を見上げ、微笑んだ。
上手く笑えたかどうかは分からないけれど、静雄が気まずそうに視線を逸らしたので、それなりに効果はあったようだ。

「もうすぐ新羅が来るから、そこで大人しくしてろよ」

空っぽになったマグカップを奪い取り、静雄は臨也をしっかり睨んでから再び部屋を出て行った。

「別に、逃げたり消えたりしないけど」
 
今回のことで、静雄にも確かに心境の変化があったのだろう。
静雄に心配されることがこんなに心を満たすなんて、思いもしなかった。
不器用な静雄の優しさがくすぐったくて、少しだけ、胸が苦しい。

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