臨也と暮らすようになってから、静雄は自分の心境の目まぐるしい変化に驚かされていた。
新羅から臨也が単身自宅へ帰ったと聞かされた時、散々迷った自分はどこへ行ってしまったのか。
成り行きだったとは言え、拒絶する臨也を強引に腕に抱いてしまった瞬間から、静雄の心はぴたりと進む方向を決めてしまったらしい。
この感情の意味を認識してからは、潜んでいた欲望が次々と湧き出てきて、自分でもどこに隠れていたのだろうと不思議に思うくらいだ。

言葉は力を持っていると、今更ながらに痛感する。
恋人だと言い切ったあの時から、静雄は自分の行動の理由が明確になって、動きやすくなった。
臨也も臨也で、満更でもない風に笑うのだから、声にして伝えて良かったのだろう。
これまでは、好きだとか、大切だとか、そんな言葉は絶対に口にしてはならないような気がしていた。
高校時代から連なる臨也と静雄の関係性にそぐわぬ言葉の数々は、音にするだけで、自分たちの危うい均衡を崩してしまうのだとばかり思っていた。

「おい、そこで寝るならなんか布団とか取ってこいよ」

冷えるだろう、と大真面目に言った静雄に、ソファにに横になっていた臨也は目を丸くしてから小さく笑う。

「ほんとに心配性だなぁ、シズちゃんは。まるで俺のお母さんだね」
「うるせぇ、誰かお母さんだ。てめぇの母親になった覚えはねぇ」

寝転がっていたソファから身を起こした臨也は、まだ笑い声を漏らしながら愉快そうに寝室に足を向ける。

「ああ、そうだったね、確かに母親じゃあない。君は俺のこいび……」
「だああああうるせぇっつってんだろ!」
「煩いシズちゃん!ご近所さんに迷惑!」

寝室から引っ張ってきた毛布を脇に挟んで、器用に両耳を塞いだ臨也はどこか楽しそうだ。
笑っている臨也を見ると、静雄は心が軽くなる。
強引にでも臨也を説き伏せて、一緒にここに来て良かった。
少しでも静雄の存在が、臨也を巣食う影を薄めることができているのだと。

目の前にごろごろと転がっている問題は、確かに目を逸らすことのできないものだ。
それでも、他愛のない日常のやり取りを愛おしむ優しい時間が、静雄にはとても掛け替えのないものに思えた。



***



「……シズちゃん?」
 
ふいに扉が開いて、眠たげに目を擦る臨也が静雄を呼んだ。
まさか起きているとは思わず、弾かれたように振り向く。

「まだ寝ないの?明日仕事だろ」
「あ、ああ」

ひたひたとフローリングを歩き、静雄が手にしていた空のガラスコップを奪い取ると、テーブルに置いたままになっていたミネラルウォーターを注いで飲み下す。
再び空になったコップをシンクに置いて、ペットボトルを冷蔵庫に入れると、臨也は静雄の隣に立ち、斜めに見上げてくる。
臨也は静雄が寝室に来るのを待って、起きていたのだろうか。
それとも、ただ喉が渇いて目を覚ましてみれば、隣に静雄がいないことに気付いただけなのか。
頭の中でいくつかの可能性が浮かんで、そして消える。

「シズちゃん最近寝るの遅いよね」
「そうか?」
「そうだよ。寝坊しても知らないよ」

来た道を戻る臨也は、素っ気なく「俺は起こせないからね」と言って寝室の扉を開く。
このまま一人でベッドに戻るだろうかと、静雄は中途半端に開いたカーテンの前にじっと立ち尽くす。
けれど静雄の予想は裏切られ、臨也は開いた扉のドアノブに手を掛けたまま、こちらを振り返る。
静雄が来るのを待っているのだと、誰にでも分かる仕草だった。
 
言葉は何一つない。
それでも、静雄には十分過ぎるほど伝わった。
頼りなく揺れる紅い瞳から逃れられるはずがない。
カーテンを閉めて、臨也の後を追う。
すると、臨也は分かり易く瞳に安堵の色を浮かべて先に寝室へと消えた。
ベッドに潜り込んだ臨也は、扉を閉めて電気を消す静雄の一連の動作を監視するように視線で追っている。

妙な緊張を覚えながら、静雄も暗がりの中シーツと布団の間に滑り込む。
枕に頭を横たえると、先に横になっていた臨也と視線がぶつかった。
数度瞬きを繰り返す間も互いの視線は重なったままで、どちらも言葉はなかった。
やがてゆっくりと臨也の指が伸びて来て、静雄の前髪を掻き分ける。

「まだ濡れてる」

すう、と臨也の瞳が細められて、口元に笑みが浮かぶ。
まるで愛おしくてたまらないものに触れるように、臨也の指先が踊る。
このままではだめだと警鐘を鳴らす頭の中の冷静な自分が、徐々に遠のいていくのが手に取るように分かった。

「臨也」

腕を伸ばして、臨也の身体を引き寄せる。
僅か数センチまで縮まった距離に、臨也は小さな抵抗さえ見せず、静雄にされるがままになっている。
まるで吸い込まれるように、柔らかな頬に手を添えて、臨也の唇を塞いだ。

初めはただ触れるだけの、お遊びのようなキス。
すぐに離れれば、臨也が閉じていた目蓋をゆっくりと持ち上げ、明かりの落ちた部屋の中でも光って見えるような、艶やかな瞳で静雄を見た。
目元に掛かる黒髪をそっと払い、今度は角度を変えて口付ける。
幾度か触れて離れてを繰り返し、口付けは少しずつ深いものになっていく。

「……ン、っ……」

漏れ出る臨也の吐息が、静雄を更に煽る。
塗れた唇を割り開き、舌を侵入させても嫌がらない臨也に、静雄はすっかり理性を失っていた。

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