「辛い癖にどうして繰り返すんだ」

横たわったまま動かない俺の隣に、影の主は音も無く腰を下ろす。
低く静かな声が、俺の滑稽な姿を窘める。

「――分かんない、よ」
辛うじて首から上だけが俺の意思を汲み取って、僅かに横を向く。
見上げた先には沈み始めた太陽を背負い、湖面のように穏やかな瞳で俺の言葉を待つ男。

「分かってたら、とっくにやめてる」
「それもそうか」

散々喘いだ喉からは、掠れた見っとも無い声しか出ない。
それでも彼は、一度瞬いて、相槌を打つだけだった。

「でも俺には、お前がどうして欲しくて、どうされたくないのか、分かっててやってるように見える」
 
そんなこと繰り返してっと、いつか罰が当たるぞ。
涙で腫れた目元をなぞる指が、知っている指の温度よりやや低いことに胸を痛めながら、けれどその優しさを恋しいとも思った。

「あーあ、俺、ドタチンのこと好きになれたらよかったのに」
「やめてくれ、冗談にならねぇ」
「ふふ。だって、ドタチンの方が優しいし、言わなくても俺の考えてることある程度分かってくれるし」
「分かっちまう自分が嫌だがな」

笑った拍子に体の至る部分が痛んだが、この痛みだけが俺に残されたもので、この痛みこそが俺をいつも現実に繋ぎとめている。
痛い方がいい。
痛くなければ、この行為には意味なんてない。

「おい、大丈夫か?動けないなら、せめて教室くらいまでなら、」
「ううん、平気。もうしばらくこうしてれば、動けるようになるから」
気遣う言葉を遮って、俺はやんわりと首を横に振った。
そうか、と溜息を吐いて彼は腰を上げる。
もう、ほとんど太陽は乱立するビルの向こう側へと消えてしまっていた。

「別に今更説教するわけじゃねえけど…、素直になっちまった方が楽だと思うぜ、俺は」

逆光で表情はほとんど読み取れなかったけれど、彼がどんな顔でそう言ったのかは、容易に想像できた。
やり切れない感情を押し殺した目で、俺を見ていたに違いない。
何度となくこんな風に、諭すような言葉を投げられてきた。
俺がまるで何も知らないモルモットのように、同じところを何度も何度もぐるぐるとまわり続けていることを知っているからこそ、彼はそんな俺をループから導き出したいのだ。
 
けれど俺は、一度だってその忠告を聞こうとは思わなかった。
むしろ、俺はこのループから抜け出したくはないと思っていたから。
小さな檻の中から出るということは、そこで温めてきた世界が全て崩壊することを意味する。

「……素直になって、それで伝わる感情なら、俺もこんなことをしようとは思わなかったよ」

既に消えた大きな背中に向かって、俺は小さく呟いた。
ぼんやりと見上げた空は、いつの間にか星がちらつき始めていた。
気が付けば、肌の上を滑る空気もひやりと冷たい。

(どうすればよかったっていうんだ)

肌蹴た学ランの前を片手で寄せ合わせ、だるい体を起こす。
答えの見つからない問いかけを何度繰り返したって、結果は同じことだ。
だったらもう、考えるのはやめたい。
何も考えずに、ただ互いの欲求を埋め合うだけでいい。

――優しく、なんて。
優しくなんて、して欲しくは、ない。
俺の弱い部分が、叶うはずのない夢を見てしまうことのないように。



***



さほど広さもない寝室に、紫煙が迷い込んだ。
煙の出どころは、家主によって開け放たれているこの部屋唯一のベランダだ。煙を乗せて運んでくる空気も、身を刺すほどに冷たくて気に喰わない。

「煙い。ていうか寒い」

師走にはまだ遠いとは言え、この季節の夜の外気を素肌に浴びれば寒いに決まっている。半袖姿のまま、ベランダで煙草一本分の時間を過ごせる静雄がおかしいのだ。

「吸うんならきっちり閉めてよ。そうでなくてもシズちゃん家は壁薄くて寒いんだしさ。まともな暖房器具さえないとかほんと信じらんない」

鼻を鳴らしながら布団の中で小さくなると、舌打ちだけがベランダから聞こえて来て、言いたいことがあるなら言い返してみろと無視を決め込んだ。
扉を閉めてそのまま一服を続けるかと思われた静雄は、中途半端に短くなった煙草を灰皿に押し付け、乱雑にガラスの扉がレールの上を滑って閉まった。
足の裏で床を軋ませ、臨也が横になったままのベッドに腰を落ち着ける。

「服を着ねぇからだろうが」

ベッドまで戻ってくる間に、道々拾い集めた服を静雄が枕元に置くが、臨也は手を伸ばさない。
服を着てしまうと、まだここにいても許される理由がなくなってしまう。
それにもし今布団から顔を出すと、頬だけでなく耳まで体温が上昇して赤くなっていることに気付かれてしまう。

(無自覚タラシめ)

可愛さの欠片もない文句を垂れた臨也のために、一服を中断して扉を閉め、服を渡してくるとは不意打ちもいいとところだ。
このまま風邪をひいて拗らせて死んでしまえ、と口悪くあしらわれた方が数百倍対応し易い。高校生の頃ならば、確実に臨也の想像通り罵りの反応をよこしたはずだ。
最近の静雄の言動は理解に苦しむものが多い。
臨也の予測通りに動かないのはこれまで通りだけれど、日臨也が意図的に何かを企てている時こそ静雄はイレギュラーを起こすのであって、常の些細なやり取りの中まで予測不可能な行動はしなかった。

最中だって、臨也に触れる静雄の手は恐ろしいほど優しかった。
ガラス細工に触れる時のように、指先一つ一つに微妙な力加減が加わっていた。
臨也のことを気遣うなんて、頭がどうかしてしまったとしか思えない。
静雄にとっての力加減など、普通の人間である臨也にしてみれば微々たるもので、以前とさほど変わりはないし、静雄のセックスが獣染みた力任せばかりのものでしかないことに変わりはないが。
けれどそのわずかな変化が、今の臨也にとっては見逃せない不安分子となる。

「誰かさんが馬鹿力なおかげで、服を着るのも面倒に感じるくらいへっとへとなんだよ」

動揺を気取られないよう、表面上に普段通りの自分の仮面を被せ、静雄の感に障る表情でわざとオーバーリアクションを取る。

「てめぇが体力ねぇだけだろ」
「俺は標準だよ。君が化け物染みた体力馬鹿なだけだろ。自分を基準に物事判断されちゃいい迷惑なんだよね。今日だって抜かずに続けてとかほんと勘弁してよ」
「……うるせぇな」
「…っや、ちょ……、どこ触ってんだよ変態!」
「だから黙れって言ってんだろ」

布団の中で器用にも臨也の胸の尖りを探りだし、静雄の熱い指先が戯れにそこへ触れる。
悪戯に弄ぶ長い指から逃れようと身を捩ると、ベッドへ身を乗り出して覆いかぶさってくる。
ようやく収まり始めていた体内の熱が、一気に蘇ってくる。

「……あ、…っんぅ」

早々に布団は取り払われ、冷たい空気に晒されて敏感になった乳首に、静雄の視線を感じるだけで羞恥心が増す。
先の情事ですっかり赤くなって存在を主張するそれに、静雄は直接唇で触れる。

「ひ…あっ、も…、今日、は……っ」
「んだよ、しっかり感じてるくせに」

固くなり、ふっくらとした乳首を指の腹で転がされ、淫らな声が噛みしめた唇の隙間から零れる。
熱い舌で何度も熱心に包まれて、蛍光灯の光に艶めかしく光るものが自分の体の一部だなんて信じたくない。

「ちょっと触ってやっただけで起たせやがって…、こんなんで女なんか抱けんのかよ」

一丁前に言葉攻めか。なぜだか静雄の方が上位に立っているようで腹立たしい。
言われ放題で黙って大人しく弄られているほど、臨也は口を噤んでいられない。
仕返しとばかりに静雄の首に腕を回し、噛みつくように唇を重ねあわせて、舌を絡める。
数年前はぎこちなかったキスにも今では慣れたようで、静雄は動揺することもなく臨也の口内を蹂躙する。

「……っは、……はぁ、っ……いつ、俺の恋人が、女の子だけだなんて言ったっけ?」

酸素が圧倒的に足りず、キスの合間に荒く呼吸を繰り返しながら、挑戦的に静雄の瞳を見上げる。
どちらのものなのか最早判断のつかない、唾液で濡れそぼった口元を手の甲で拭いながら、静雄が分かりやすく眉間に深い皺を刻んだ。



***



「……てめぇの言う通り、俺はひとりだ。てめぇとは違う」

トーンの低い声で、独り言のように呟かれた言葉に臨也はどきりとした。
やはり、静雄はどこかおかしいままだ。

「な、に……、ちょっとやめてよ、しおらしい君なんて気持ち悪いだけなんだけど」

挑発の言葉にも乗らず、静雄は玄関のドアを開けて、臨也の存在を無視してするりと中に入ってしまった。
慌てて後を追い掛けると、ようやく静雄と目が合った。
静雄が一体何を考えているのか分からない。
単純に怒りを露わにしてくれればいいものを、やたらと冷静で余計に怖い。

「帰れ。もう来るなって言っただろ」
「そう言われて、俺が素直に帰るとでも思ってんの」

理由も聞かされぬまま拒絶されて、ここでまた引いてしまっては、もう二度と静雄の口を割らせる機会は来ない気がする。

「ねえ、前にも聞いたけど、どうして急に俺のこと突き放そうとするの?シズちゃんもそれなりに楽しんでたでしょう?」

部屋の奥へ消えようとする静雄の腕を掴み、じっと目を見つめる。
普段ならここで静雄も挑むように視線をぶつけてくるが、今日は居心地が悪そうに視線を逃がして、強引に奥へ奥へと進む。

「てめぇは俺がいなくたってやっていけるだろ。俺の代わりなんて、すぐに見つかるんだろ」
「はあ?それどういうこと?俺だってさすがに誰とでもほいほい関係持ったりしないよ」
「慰めるだけなら、門田だって……、」
「ドタチンが何て?ちょ、ちょっと待ってってば!」

足を止める気のない静雄に半ば引っ張られる形で静雄の家に上がり込んでしまった臨也は、戸惑いながらも再度静雄の腕を強く引く。
ちっともこちらを見ようとしない静雄は、やっと足を止めたけれど、その場に立ち止まったまま動かない。

「シズちゃ、」
「俺は……!っ、お前といる時の自分が、一番嫌いなんだよ!」

部屋の空気は、ぴりぴりと張り詰めていた。
肌で感じる痛みと、鼓膜を大きく揺らした静雄の言葉を、思わず脳内で反芻する。

(俺と一緒にいるときの、自分が嫌いって……)

「―――なに、それ」

何かを言わないとと思って開けた口から、乾いた笑い声が勝手に漏れた。
静雄の口から発せられる言葉は、思いのほか臨也の心臓を抉ったらしい。
冷えていく頭とは反対に、喉の奥が熱を持ち始めて、気を抜くと何かが溢れ出してしまいそうだ。

「俺だって…、俺だって、別に好きでシズちゃんとなんか……っ」

そこまで言って、その先の言葉がどうしても続かなかった。
好きで寝ていたわけじゃないなんて、その場を取り繕うだけの意地っ張りな嘘を、吐き出すことはできなかった。
いっそ、普通に嫌いだと罵られた方がよかった。
われることには慣れている。煙たがられることも、追い返されることも、もうどれも慣れた。
けれど、まるで自分が傷ついたような顔で、静雄が自分のことが嫌いなのだと言うなんて思いもしなかった。

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