IR(アイ・アール) 前編

毎晩必ず、というわけではない。
けれど臨也は一人の夜に、ふと静雄に電話をする。
高校生の頃から犬猿の仲だった静雄が臨也に電話番号を教えるはずがないから、もちろんそれは情報屋の本領を発揮して手に入れたナンバーだ。
初めて電話を掛けた日は声を出した瞬間に怒鳴られて切られたけれど、何度も掛け続けている内に話を聞いてくれるようになった。
静雄は何も話さない。臨也だって、取り立てて話したいことがあったわけじゃない。
それでも静雄は電話を切らないで、意味のない話を黙って聞く。
臨也はそれがたまらなく嬉しくて、何度も何度も電話を掛けた。

「でね、昨日もさぁ、その取引先の男が……、シズちゃん?聞いてる?ねえ、シズちゃんってば」

対面では絶対に続かない穏やかな会話が、静雄の相槌が途絶えたことで途切れる。
会話と言っても、ほとんど「ああ」とか「へえ」とか、そんな相槌しか返さないけれど、それでも臨也にとってその相槌が返ってくるということが、大きな進歩だった。

その相槌さえ止まってしまい、急に不安になった。
臨也ばかりが喋るのはもういつものスタイルで、今更怒るようなことではない。
話の内容も他愛のないものばかりで、何が癇に障ったのかさえ分からない。

「……ごめん、もう眠いかな?そうだよね、いっつも俺、こんな遅くに電話するし、しがないサラリーマンのシズちゃんは明日も普通に朝から仕事だよね!俺はほら、こんな仕事だし?時間に拘束されるっていう意識がなくて、だから」

受話器の向こう側にいるはずなのに、声がしないだけで馬鹿みたいに怯えて、とにかく沈黙を壊そうと立て続けに喋った。
沸点が異様に低い静雄を仮に怒らせたのだとすれば、まず間違いなく怒鳴って電話を切るはずなのに、繋がったまま何も言わないというこの状況が異常すぎて恐ろしい。

「臨也」

息継ぎをするタイミングさえ見失って、勝手に動き続ける口に任せて言葉を紡ぐと、耳元で静かな静雄の声がして、臨也はようやく息を吸った。

「俺はてめえに携帯の番号を教えたか?いや、教えてねえよな」
「……そりゃあそうだけど、もうずっと電話してるじゃん。なんで今更そんなこと…」

驚くほど冷静な静雄の言葉に、臨也は痛いところを突かれた。
情報屋という仕事を下種だと吐き捨てる静雄は、臨也が勝手に個人情報を調べたという事実を確実に嫌悪するだろう。
むしろ今まで突っ込まれなかったことが奇跡的だ。
そこは静雄らしいと言えばそうだけれど、今日まで電話に答えてくれていたばっかりに、臨也はこういう状況を想定できていなかった。

臨也にとって、この深夜の電話は唯一静雄とまともな会話ができる時間だった。
直接会った時はすぐに殺し合いになって会話どころじゃなくなるし、面と向かった時に嫌味や罵詈雑言を吐かない自信が全くない。
憎まれ口をひたすら叩きあうだけでも臨也にしてみれば十分な“会話”だったけれど、いつの間にかそれだけでは足りなくなって、もっと普通に、それこそ静雄がトムと日常を語り合うみたいに話してみたくなってしまったのだ。

「……シズちゃん?」

再び口を閉ざした静雄に、祈るような気持ちで呼びかける。
何を言われるのか怖い。
言葉はずっと臨也の味方で武器だったはずなのに、電話越しの静雄にはそれがまるで通用しない。

「もう俺の携帯にかけてくんな。言いてえことがあるなら会って直接言え」

だから静雄にそう言われても、臨也は何も言い返せなかった。
ツーツー、と受話器から聞こえてくる通話が切れた音にみっともなく縋りついて、携帯を握りしめることしかできなかった。




「言えるわけないじゃん!」

ローテーブルの上に、すっかり冷めきったコーヒーが広がった。
ソファから今にも腰を上げそうな勢いで叫んだ臨也を、新羅は横目で見るにとどまり、静かに自分のコーヒーを啜る。

「言いたいこと言えって?言えるんならわざわざ電話番号調べてまで電話しないよね!ていうかどうして今更気付くかなあ、鈍感の癖に無駄に変な感だけはいいんだから気付くんならもっと早く気付けよ!嫌なら嫌で最初っから掛けてくんなって言えばいいだろ!?なのになんで、散々俺の電話受けておいて、なんで、今更…っ!」

腕の中で犠牲となったクッションが、無遠慮に拳を叩きこまれる様を眺めながら、新羅はようやくカップを置いた。
コーヒーが零れていようが、クッションから羽根が舞っていようがこの際もう関係ない。

「でも、静雄は間違ってないよね」
「何が!もう掛けてくんなって?そりゃああいつは俺のこと大っ嫌いなんだから、俺と電話なんてしたくないだろうね!そうだよ!それなのに、シズちゃんとまともに会話したいとか、もしかしたらとか、馬鹿なこと考えた俺が間違ってたんだよ!分かってるよ!!」
「いやあ、そういう意味じゃなくて…」
「じゃあ何だって言うんだよ!ああ、もしかしてシズちゃん、俺がシズちゃんのこと好きなの分かってて嫌がらせでもしてるつもりだったのかな!アハハ!化け物の癖に俺のことからかってたんだ!俺も地に落ちたもんだよね、単細胞のシズちゃんに馬鹿にされてたなんてさあ!」

今にも喉が爆発しそうな勢いで喚いた臨也は、下手をすると釣り上がった目から涙を溢れさせそうな様子でクッションを床に叩きつけた。
幼い頃から早熟で同じ学年の子供たちを見下していた臨也だけれど、静雄のことが絡むと急にわがままで駄々を捏ねまくるただの子供のようだ。
高校生の頃から何度となく葛藤を繰り返してきた臨也の宥め役を嫌々買ってきたが、今回はまた一段と酷い。
それだけ臨也が静雄との電話に期待を抱いていた証拠とすると、少しは臨也のひねくれた根性の中にも人間らしさが芽生えておめでとうと言いたいところだけれど。

「やめる」

ひとしきり喚いて暴れて、息を荒げた臨也が俯いたまま言った。

「何を?静雄に電話するのを?」
「違う。シズちゃんのこと好きでいるの、やめる」

ずっ、と鼻を啜った臨也は、もしかするとちょっと本気で泣いていたのかもしれない。
静雄への思慕へ気付いた時も、それを誤魔化そうと足掻いた時も、結局捨てきれなくて真っ向から認めた時も、もう何度も聞いた言葉に新羅はもう返す言葉のレパートリーがない。
静雄を心底憎んで殺すことに執着した高校時代に何がどうしてそうなったのか、静雄を好きになってしまった臨也は、たいそうひねくれて捻子曲がってはいたけれど、静雄への感情だけはどうしても曲げられなかったのだから。
新羅がどうこう言ったって、それで臨也の何が変わるわけでもない。

「そう、それならそれで俺は迷惑ごとが減って、コーヒーカップも割れずにすんで、クッションを買い替える手間も省けてそりゃあもう嬉しいけど」

コートを掴んで席を立った臨也の背中に、新羅はおせっかいを差し向ける。
確かに臨也は静雄の恨みを買いまくっているし、ひん曲がっていてどこをどうすれば好きになれるのか新羅にはこれっぽっちも分からないけれど(セルティを愛しすぎている自分がある意味ひんまがっていることは棚に上げておく)、必死に静雄との関係を修復しようとしていた最近の臨也は、以前より随分好意が持てた。
少しくらい手を貸してやってもいいかな、と思えるくらいには新羅も臨也に肩入れしていた。

「君のその無駄によく働く頭で、もう少し静雄の言葉の意味を考え直した方がいいと思うよ」

冷たくなったコーヒーを啜って、新羅は真面目な顔で言った。
振り返り、新羅を睨みつけた臨也の目はらしくもなく涙で潤んでいた。

「俺に何度も絶望を味わえっていうの?」

言いたいことだけを好きなだけ吐きだして、臨也は新羅のマンションを出て行った。
リビングの惨状とこの後荒れるであろう臨也を思うと溜息しか出ない。

(どうして気付かないかなあ)

悪いことを考える時は勘弁願いたいと思うほどによく回るというのに、臨也の頭はすっかり考えることを放棄しているようだ。
新羅から見れば明らかだというのに、人間のことを誰よりも愛し、誰よりも理解していると豪語するくせに、ちっとも人間の心というものを悟れないのだから仕方ない。
こういうものは第三者の目から見た方が顕著に見えるというのは通説だけれど、それにしたって臨也は鈍かった。

静雄が言いたいのは、きっと臨也との電話を終わりにしたいということではないだろう。
もしも嫌で嫌で仕方がないというのなら、静雄はもうとっくに臨也をぶんなぐってそれこそ問答無用でデータの入った携帯電話を鉄くずにしてしまっていただろう。
嫌いで、憎んでいて、殺したくて、それでも電話を切らない理由をどうして想像できないのだろう。

「ほんとうに面倒だなあ」

頭を掻いて、新羅は本日数度目の溜息を吐いた。

静雄はただ、順番を間違った臨也に、やり直す方法を伝えたかっただけなのだ。
口下手な男が天敵に送る言葉は、これが精いっぱいで十分な譲歩だったはずだ。
けれどすっかり臆病になった臨也には、静雄の言葉は真っ直ぐ届かない。

(池袋に、自動販売機の嵐が来るかも)

新羅はやれやれと肩を落として、後片付けのためにキッチンへ向かった。


***


開いては閉じ、また開いては閉じ。
どうせ消せはしないのに、何度も「削除しますか」の文字を眺めて、また閉じる。
そんな意味のない動作を繰り返すことも、掛けてくるなと一度言われたくらいで馬鹿みたいに落ち込んでいることも、自分らしくなさすぎて苛立つ。
何度来るなと言われても、池袋に通い詰めてちょっかいを掛け続けた図太さはどこへやら。
一体どれだけあの“夜の電話”に依存していたのかと思うと、情けなくて溜息が止まらない。

あの日から一週間と二日。
臨也は電話はおろか、池袋にでさえ出向いていない。
意図的に池袋での仕事を避けた結果だが、電話もせず、池袋へもいかずにいると、こんなにも静雄との接点はなくなってしまう。
それがまた臨也を暗鬱な気分にさせていた。

「ちょっと、あなた本当にいい加減にして頂戴。仕事にならないわ」

何度目かの臨也の溜息に、とうとう波江が荒だった声をあげた。
緩慢な動作で波江に視線を向けると、普段からとても穏やかとは言えない眉が更に釣り上がり、眉間のしわが異常に深い。

「うじうじされても迷惑なのよ。とっとと池袋に行くなり、電話するなりしたらどうなの?鬱陶しいったならいわ」
「波江さんのように誰でも躊躇いなく愛情を表現できる訳じゃないんだよ」
「表現できないようなものなら、そんなもの偽りよ。愛しくてたまらないのなら、言わずにはいられないはずだわ」

臨也を悩ませ続けるこの感情を偽りだと言うのなら、それはもう両手を挙げて大喜びしたいくらいだ。
とっとと悩むことをやめて、いらないものだと捨ててしまいたい。
けれどそれができないから、臨也は数年間ずっとこの感情を小さく小さく折りたたんで、隠して、嘘を吐いて、それでも大切にしまってきた。

(でも、それももうおしまいかな)

これ以上この感情をしまっておいたって、不毛なだけだということは百も承知。
そもそも自分が静雄に好かれるなんて奇跡が起こるとも到底思えない。
ただ、好きになってもらえなくてもいいから、嫌いだと言われなくなりたくて必死で足掻いたけれど、ファーストコンタクトで臨也が与えた印象は最悪で、攻撃的な態度を変えられなかった意固地さが今の結果を招いている。

諦めるしかない。いっそ池袋にちょっとやそっとじゃ行けないどこかへ、移り住んでしまおうか。
またいつの間にか開いていたデータを見つめて、そして目を伏せた。

もう、耳元を甘く擽っていた静雄の落ち着いた声を思い出せない。
臨也の中の静雄は99%が怒りを爆発させていて、叫んで怒鳴っている。
せめて、せめてもう一度だけ臨也の名前を穏やかに呼ぶ声を聞いておきたかった。
それが最後だと覚悟ができていたのなら、これほどずるずると未練を引きずったりしなかったかもしれないのに。

「………はあ」

もう何度目かも分からない溜息を吐くと、波江の苛立ちをそのまま体現したような、机を爪ではじく音が一層強くなった。
そろそろ本気で仕事に取りかからなければ波江の怒りが収まらないと、パソコンの画面に向き合った時、突如コツコツと絶え間なく続いていた音が止んだ。
しばしパソコンの画面に集中した波江は、次いで視線を臨也に向けて、口角を釣り上げた。

(うわ、嫌な予感…)

思わず椅子ごと後ずさった臨也に、嫌味120%の笑顔で波江が言った。

「仕事よ」




歩き慣れたはずの道を、臨也は過剰なほど慎重に進んでいた。
お気に入りの黒いコートをきっちり着込み、フードまで厳重に装備している。
右を見て、左を見て、とにかく気配を消して人ごみにまぎれて、足早に通りを抜ける。
臨也が数日訪れなかった池袋の街は、いつもとなんら変わらず日常を生んでいる。
その中に潜む無数の非日常など簡単に飲み込んでしまう。

この数日、意図的に池袋での仕事を避けてきたが、どうしてもと言って引かないお得意先(臨也の場合によってはそれを都合のいいカモとも言う)からの急な仕事を波江が勝手に引き受けたのだ。

(絶対嫌がらせだ)

事務所で自分を見送った波江の顔には、「あーせいせいした」とはっきり書いてあった。
静雄のことを完全に諦められるまで東京を立つ覚悟さえしていた臨也をあっさり池袋に押しやって、彼女は今頃一人悠々とほくそ笑んでいるのだろう。
しばらく自分に池袋関連の仕事が回って来ないように手回しさえしていたと言うのに、せっかくの苦労は波江の仕返しで水の泡。
渋々取引先へ出向いて仕事を終えてはきたが、臨也だって自分がなぜ池袋へ足を運んだのか良く理解していた。

どうしても会いたくないのなら、仕事を断るという手もあったし、池袋にはいかないと意地を貫きとおすことだって幾らでもできた。
それなのにそうしなかったのは、本音を捨て切れずにいる汚い自分の言い訳があるからだ。
今後の円滑な取引のことを考えて、なんてもっともらしい理由をぶら下げて、公然と池袋に行きたかっただけだ。
拒絶されても、偶然静雄に見つかって、また追いかけられて、少しでも話をしたかっただけ。

「ほんと、なんて女々しいんだろうね」

どんなに人ごみの中に紛れていても、どうしたって探してしまう金髪と青いサングラス。
雑踏の中でさえ臨也をはっきりと捕えている茶褐色の瞳を見つめ返し、こちらに真っ直ぐ向かって歩いてくる静雄に、臨也は観念したようにそっとフードを取った。


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