その日、空はむせ返るような赤だった。
目の前で立ち竦む華奢な肩が、短い髪が、震える腕が、全て空の色に染まって見えた。
その時の景色は、”赤い”としか表現できない。
ゆらゆらと揺れる瞳が、空の色をそのまま写し取ったように赤かった。

こんな赤を、俺は知らない。どんな花の色とも、どんな絵の具の色とも違う。
十二色の色鉛筆の数ほどしか頭の中には色を例える言葉が見当たらず、一体それを何色と呼ぶのが一番正しいのか答えは見つからない。
白いと感じていたはずの頬は橙色で、その肌の上を次々と涙が滑り落ちていた。
不思議な感覚だった。
そこに立っている男が、俺の知っている男とは思えないほどに、その細い体を小さくさせて言葉も無く泣いていた。

「気味が悪い…っ、俺に近寄るな!」

グレーのスーツに身を包んだ見知らぬ男が、端正な顔を醜く歪め、吐き捨てるように言った。
その言葉に縮こまっていた肩がびくりと跳ね、頬を伝う涙がその勢いを増す。
俺は訳も分からぬまま、その男を殴り飛ばした。
腹の底から煮え滾る怒りを、俺は制御することをあえてやめた。
庇ったわけでも、同情したわけでもない。
そんな感情を向けるに足りる奴じゃない。いっそざまあみろと罵ってやったってよかったはずだ。
それなのに俺の腕は、唖然としたまま動かない体を抱きしめた。
自分でも信じられないほど、自然と腕が伸びて、無機物以外のものに触れる恐怖も、力加減も、何もかも頭から吹き飛んでいた。

「…な、んで……シズちゃんが……、」

嗚咽混じりの声が、耳元で苦しげに言葉を紡ぐ。
腕に込めた力を僅かに緩めて、それでも震える体を俺は捕まえたまま離さなかった。

「知るか。殴りたかったから殴っただけだ」
「なにそれ…、そんなの、おかしいよ」

肩口に浸み込んでいく涙は、止まる兆しもない。
俺にできたことは、こいつの頭に手を当てて、一層強く抱きしめることだけだった。
いつの間にか控え目に添えられた手が、着崩したブレザーを握る。
やがて嗚咽がすすり泣く音に変わり、そのまま臨也は眠るように意識を手放した。
あれほど激しい赤に染まっていたはずの瞳は、目元に涙の跡を残して緩く閉じられていた。

それ以来だ。
俺が臨也と体を繋げるようになったのは。
俺たちは恋人じゃない。一度として、好きだの愛しているだの、相手に好意を伝える言葉を口にしたことはない。
それでも俺たちは、日のある内は殺し合い、夜が訪れるとベッドになだれ込んだ。
なんとも生産性のない関係だった。

中学までの毎日に比べ、確実に俺は荒れた学生生活を送っている。
それでも俺は、退屈なんて言葉とは無縁のこの生活をそれなりに気に入っていた。
息つく暇もない。
一言で言えば、そんな毎日が足早に駆け抜けていく日常生活。
そこにはいつも臨也がいた。

何のてらいもなく人間全てを愛していると豪語する臨也は、俺から見ても頭のおかしい奴だった。
やたらと目立つ短ランの下に、真っ赤なシャツを着た臨也は、上手くクラスに溶け込んでいるようでいて、明らかに浮いた存在のように俺の目には映った。
そんな臨也との日々はとにかく喧嘩の繰り返しで、喧嘩と呼ぶには既にその規模が大きくなりすぎている。
そうと分かっていて、故意に差し向けられる喧嘩の火種を、俺は敢えて一つ一つ消して歩いた。

セックスの誘いにも、二つ返事で頷いた。
あの日から、臨也は今まで以上に俺に絡むようになった。
用心深い臨也が時折隙とも呼べる仕草や行動を俺にだけ見せるようになったことも、悪い気はしなかった。
俺は、こいつに絆されたのかもしれない。
もちろんそんな単純な理由だけで、殺し合う相手とそう容易く体を繋げたりはしない。
そこにはもっと根底に、俺の心をこじ開けた原因があった。
俺の力を知っても尚、俺から逃げないどころか真っ向から喧嘩を吹っかけてくる奴なんて臨也くらいしかいない。
俺が本気を出しても壊れない奴は、臨也しかいなかった。

ああ、この手で殺してやりたい、そんな獰猛な感情を抱えながらも、俺の中で臨也という存在が急速に膨れ上がっていた。
臨也は他の奴らとは違う。
俺の中に臨也に対する執着心や独占欲に似た感情が芽生えているという事実は、すでに偽ることができなくなっていた。







地面に溜まった水を跳ね上げ、肩が濡れることも厭わず走るが、傘が邪魔でなかなか前に進めない。
おまけに雨の臭いが強くて、臨也独特の臭いもあまり感じ取れないのがもどかしい。
もたついている間に見失ってしまいそうだ。
路地の入口に辿り着いた時、やはりそこに臨也の姿はもうなかった。
まだ明かりをつける時間ではないため、雨雲の影響もあって辺りは薄暗い。
雨音が激しいせいで、足音も辿れない。

「……っくそ!」

また振り回されている自分に気づき、悪態が口を付いて出た。
関わらない方が身のためだと分かり切っていたのに、どうして思考の先が臨也に向いてしまうのか。
めて元の大通りに踵を返そうとしたとき、雨音に混じり、遠くで男の声が響いた。

臨也の声じゃない。
けれどあの集団の中の誰かの可能性は高い。
体を反転させ、声がした方へと歩き出す。
この雨の中声が届くということは、案外近くにいるかもしれない。
大きな足音を立てると逃げられる。
ここまで来たのだからこの際見つけるまで引くものかと、注意深く意識を巡らせながら曲がり角の向こうを控え目に覗き込む。

「生意気な面しやがって…。しかし、よくもまあ化けたもんだよなぁ?昔は前髪こんくらいまで伸ばして、俯いて歩いてたような奴がさ」
「ばらされたくねぇだろ?だったらちゃんと俺たちの言う事聞いてもらわねぇと困るんだよ」

男子生徒五、六人の背中がちらりと見えた。
傘に隠れてよく見えないが、臨也は壁に背中を押し付けられた形で全身に雨を受けている。
男たちが臨也に掛ける言葉の意味はよく分からないが、どうやら臨也の過去を知っている人間のようだ。
あからさまな挑発と脅迫。陰湿な臭いが濃く漂っている。
普段の臨也なら、人間らしい醜い心の観察を存分に楽しんだ後に、まるでゲームの盤をひっくり返すかのように全てをぐちゃぐちゃにかき回して潰してしまうだろう。
けれど、どうにも臨也の様子がおかしい。
言われ放題で、よく回る煩い口が一言も声を発しない。
苦しい体勢で冷たい壁に押し付けられたまま、抵抗しようともしない。

「良かったなぁ、便利なもんが流行ってさぁ!」
「……っぐ!」
「おい、もう顔はやめとけよ。昨日結構ひどいことになっちまったし」

数度続いた鈍い音と、臨也のくぐもった声で、殴られたのだと分かった。
今朝新羅が治療した頬の傷も、こいつらにやられたものだったのだ。
ならばきっと、服の下の見えないところにも同じような打撲傷があるに違いない。

「げほっ、ごほ…っ」
「ちょっとは抵抗してくんねぇと面白みがねぇな」

ばしゃり、と水が跳ねる音がして、臨也の体が雨水の中に崩れ落ちた。

「だったら、一番抵抗してくれることをすればいい」

主犯格の男だろうか、倒れ込んだまま動かない臨也の前にしゃがみ込み、髪を掴んで体を強引に引き起こした。
そのまま器用に傘を肩と頭の間に挟み、男の指先がゆっくりと臨也に向かって伸びた。

「ひっ……、いや、だ…!」
「ほらほら、面白くなってきた。腕、押さえとけよ」
「やめ…!嫌だっ、やめて、お願い…っ!」

聞いたこともない臨也の悲痛な叫び声に、頭に上った血が瞬間的に沸騰して、形振り構わず傍にあったごみ箱を反射的に掴んで放り投げた。
空から降ってくるはずのないものが突如地面に叩きつけられて、その場にいた男たちは一様に背後を振り返る。
片手に握っていた傘はあらぬ方向に捻子曲がり、もう使い物にはならない。
拉げて原型を留めていないごみ箱と傘を交互に見やり、一人の男が弾かれたように声を上げた。

「や、やべぇ…、こいつ、池袋の自動喧嘩人形だ!」
「なんだよそれ」
「いいから、早く逃げんぞ!殺される!」

虫の巣を突いたように、男たちは我先にと狭い路地を抜け出す。
一人ずつぶん殴ってやっても良かったが、それよりも今は、地面に蹲ったまま両手で顔を覆って動かない臨也の方をどうにかする方が先だった。
靴の中に水が浸み込むほどの雨の中、俺と臨也は遮るものもないまま、雨に打たれていた。
下手をすると風邪を引きかねない。
とにかく臨也を起き上がらせようと、臨也の傍で膝を折り、腕を引いて体を持ち上げる。

「臨也」

ぐったりとしたまま動かない臨也に呼びかけると、壁に凭れかかり、臨也がゆっくりと首を持ち上げた。

「シズちゃん……」

青紫に変色した唇から、ぽつりと漏れた声。
けれど俺は、すぐ傍で呟かれた臨也の声さえ、耳に入っていなかった。

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