多すぎる人ごみをすり抜けて、この季節にはやや不釣り合いな黒いコートの背中をしっかりと視界に収めた。
「やあ、シズちゃん」
片手に携帯電話を持った臨也が、初めからそこに静雄がいることを知っていたかのように、振り向きながらそう言って唇の端を吊り上げた。
反射的に手近にあったコンビニのごみ箱を掴んで、全力で投げつける。
けれど臨也は涼しい表情のまま、するりと避けて余裕たっぷりにナイフを構えた。
「シズちゃん、とうとう力を調節できるようになったんだって?せっかくだからお祝いしてあげようと思って来てみたけど、コントロールはまったく成長していないようだね。力任せに投げたって俺には当たらないよ」
「黙れクソノミ蟲ぃ!」
「ほらほら、そんなんじゃいつまで経っても俺を殺せないよ?」
手当たり次第にありとあらゆるものを引っこ抜き、持ち上げ、矢継ぎ早に投げつける。
それでもすばしっこく逃げ回る臨也には掠りもしない。
いい加減焦れてきた静雄は、軽いステップで間合いを取った臨也をじっと見据え、手にした標識を投げずにぐっと堪えた。
しばし二人の間に沈黙が続き、周囲の野次馬の声さえ遠のいた時、根こそぎ抜け落ちる、という表現がぴたりとあてはまるほど突然、臨也の表情が無くなった。
目を奪われた静雄に僅かな隙が生じ、あっという間に臨也は間合いを詰めて静雄の懐に飛び込んだ。
受け身を取る間もなく、全身の体重をナイフの先端に乗せて倒れ込んできた臨也を、思わず静雄は受け止めてそのままアスファルトに強かに頭を打ち付けた。
静雄の腹部には、鈍く光るナイフが突き立てられている。
静雄の体の上に圧し掛かったまま、臨也は少しも動かない。
ただ、どくりどくりと、臨也の心臓が脈打つ振動が静雄の肌を振るわせた。
「ほんとに、制御できるようになったんだね」
ぽつりと小さく呟かれた声に、自分の腕が臨也を抱きとめたまましっかりと背中に腕を回していたことに気付いた。
咄嗟に腕を回したのだ。昔の静雄であれば、相手を抱きつぶしていてもおかしくない。
静雄が慌てて腕を解くと、臨也は素早く立ち上がって飛び退く。
逆光で、臨也の表情は全く窺えなかった。
酷い違和感に、静雄の本能が警告を鳴らす。
掛ける言葉が見当たらず、黙ったままゆっくりと上体を起こす。
その頃にはもう、臨也の表情はすっかり元通りの嫌味なものに成り代わっていた。
「あーあ、もう使い物になんないや」
カラン、と音を立ててアスファルトの上に捻子曲がったナイフが転がった。
「もうここまでにしよう、シズちゃん。俺疲れた」
暑いしさ、と付け加えられた言葉に、勝手にしろと返して、踵を返した臨也を黙って見送った。
刺さるはずがないと知っていて突き立てられたナイフの意味を、追い掛けることさえせずに。
***
寄せて引いてを繰り返す夕暮れ時の浜辺に、見慣れた黒いコートに身を包み、何をするでもなくぼんやりと佇む臨也に、静雄はゆっくりと歩み寄る。
不思議だった。
その姿を目にして、理性が焼き切れなかったことは今まで一度もなかったのに、今は自分でも信じがたいほどに心が落ち着いている。
ずっと足りなかったパーツが、やっと居場所を見つけてぴたりと収まった。
だからなのか、上がる心拍数とは逆に頭の中はすっと澄んでいく。
何を言おう、どう尋ねよう。道すがら考えつくしてきたことが、一瞬で吹き飛んだ。
何だっていい、どうせ言葉なんかじゃ表せない。
胸の中で急速に膨れ上がる激しい衝動のままに、静雄は足を踏み出す。
「―――臨也」
潮騒に混じる静雄の声に、臨也が振り返る。
背にした夕焼けよりもずっと印象深い紅い瞳が、大きく見開かれる様が酷くゆっくりと見えた。
「シズ、ちゃ…、ん?」
信じられない、そんなはずがない。
立ち竦んだ臨也の瞳が、静雄を捉えたまま大きく揺れて、今にもほろりと落ちてしまいそうだ。
零れる――そんな、ありえないことを考えた。
ありえないと分かっていて、それでも静雄の手は臨也に向かって伸びる。
じりじりと数歩臨也の足が後ろに逃れた次の瞬間、弾かれたように反転した臨也は海へ走る。
後数歩の距離にいた臨也を捕え損ね、静雄も慌てて後を追う。
「おい、待て、お前そっちは…!」
冬の海は足を踏み入れた途端体を芯から冷やし、みるみる内に体温を奪う。
けれど臨也は足を止めることなく、躊躇なく波を掻き分けて、とうとう水位が静雄の太腿の辺りまで来た時、我慢ならずに声を上げた。
「…っ臨也!待てっつてんだろうが!」
腰まで水に浸かって動きが鈍くなった臨也の腕を、がっちりと掴む。
すると今後は駄々を捏ねる子供のように、躍起になってその手を引き剥がそうともがく。
「嫌だ、…離せっ!」
「離したらてめぇ逃げんだろ!」
激しく暴れる臨也に静雄が力で負けるわけもないが、水しぶきが飛び散り、波が容赦なく足を浚う。
下手に力を籠めれば簡単に折ってしまうほど細い腕に静雄の緊張が高まった時、臨也の体が突如後ろに傾いた。
「あ……っ!」
掴んだままの腕をぐっと引き寄せ、もう片方の腕を咄嗟に臨也の体に回す。
柔らかく崩れやすい足元と波に危うく倒れそうになりながらも、辛うじて踏みとどまる。
大きな波が去った後、荒い息遣いが二人分、真冬の海の真ん中に残された。
何が起こったのか把握できないまま、静雄は湧き上がる感情に逆らわずに怒鳴った。
「馬鹿野郎!危ねぇだろうが!だいたい海に向かって逃げてどうすんだ、あぁ!?そんなに死にてぇのか!」
腕の中の薄っぺらい体が、びくりと怯えるように震える。
視界の端に映る短い黒髪と、久しぶりに嗅ぐ臭いに、静雄は臨也の様子などお構いなしに抱きしめる腕にさらに力を込めた。
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