『―――シズちゃん』
小さな息遣いだけが続く沈黙の後に、ぽつりと呼ばれた名前。
他に言葉は何もない。必要なかった。
呟かれたその一言の中に、臨也が求める全てが込められている。
「今どこだ」
『分かん、ない…』
「池袋か」
『……うん』
静雄はそこで電話を切り、上着を乱暴に掴んで家を出た。
ビルに埋め尽くされた暗い空が圧し掛かる街を、急ぎ足で進む。
苛立ちと、それに勝る焦燥感に突き動かされる。
臨也が新宿へ拠点を移したすぐ後、今日のように何の前触れもなく静雄の携帯が鳴ったことがあった。
着信は未登録の見知らぬ番号から。
僅かに不信感を抱いたものの、静雄は特に深く考えずに通話ボタンを押した。
その時、受話器の向こう側に居たのは臨也だった。
予想もしなかった相手からの着信に、しばし言葉を失った静雄は、その数秒後受話器越しに怒りを爆発させようとしたのだが、すぐにその勢いはへし折られることとなった。
「シズちゃん」と名前を呼ぶ臨也の声は弱々しく、荒い呼吸音が耳を震わせた。
走って呼吸が乱れているという単純な理由ではないと、何度も臨也を追いかけた静雄にはすぐに分かった。
臨也が自分以外の人間に、ここまで息を荒げるほど追いつめられるはずがない。
臨也はそんなに軟ではない。憎らしいほどに図太く、気が付くとするりと壁さえ通り抜けそうなほどに身軽く逃げ果す。
そう、臨也は簡単に誰かに弱みを見せるほど、弱い人間ではないはずだった。
感覚が示すままに走り、辿りついた路地で静雄が見たものは、冷たいコンクリートの壁に力なく体を預けて小さく息を繰り返す臨也の姿だった。
既に陽は落ち、街の明かりさえ届かない細い路地の道に飲み込まれた影。
足元に広がる血の色さえ黒く、全身を黒で包んだ臨也はあまりに危うく、暗闇に溶けて消えてしまうような錯覚に陥る。
ただぽっかりと、臨也の青白い頬だけが闇の中に浮かんで見えて、辛うじて静雄をくだらない想像から引き戻した。
そして今、静雄はあの日と酷似した光景を前に立っている。
もう何度目かの光景。
暗がりに浮かぶ白い顔と、黒い血。
頽れた細い体に手を伸ばせば、元々赤い目をさらに赤く腫らせ、体温の低い手が静雄を掴んだ。
「シズちゃん…シズちゃん……っ」
縋るように静雄の腕の中に収まった臨也は、小さくしゃくり上げながら静雄の背中をぎゅっと握りしめる。
人肌に縋って泣く姿は、まるで赤子だ。
気付かれないように息を吐いて、臨也を抱き上げるためにわき腹に腕を通す。
ぬるりと生温かい感触が静雄の手を掠めたのだが、今は知らぬふりをした。
臨也の右腕を肩に回し、ひざの裏に左手を差し込んで片腕で持ち上げる。
出掛けに掴んで来た上着を臨也の体に掛けてやり、静雄は空いた右手で尻のポケットにある携帯を探った。
向かう先は新羅のマンションだ。
臨也を連れていく、と一言告げただけで新羅は全て心得たと言う風に頷いて、電話を切った。
大人しく体重を預けている落ち着いた様子の臨也に安堵して、静雄は夜の池袋を歩き始めた。
こうなった臨也と、普段の敵意をむき出しにして挑発してくる臨也とのギャップに、静雄は未だ慣れることができない。
否、慣れろと言う方が無茶な注文だ。
殺したいと思い、長年憎んで来た相手に自分の弱った姿を晒し、助けを求めて縋りつく。
余計なことばかりに良く口を回し、大切なことは何一つ言わない臨也の行動の真意など、所詮静雄には到底理解できなかった。
「やあ、静雄」
インターホンを押して間もなく、新羅がドアを開いて顔を覗かせた。
視線だけで相槌を打ち、玄関に上がり込む。
その場にしゃがんで臨也の靴を脱がせると、新羅が診察室の扉を開けて待っていた。
「あーあー、今回もまた派手にやったね、臨也。後で廊下の掃除しなきゃ」
玄関から点々と後を残す血の痕が、静雄の歩いた場所を辿ってついている。
心底面倒くさそうに両肩を竦めた新羅は、静雄が診察室に入ったのを確認すると、後ろ手で扉を閉めた。
白く張りつめたシーツの上に、ぐったりと力の抜けた臨也の体を横たえる。
静雄にしてやれることはここまでだ。後は新羅がどうにかするだろう。
血で汚れた上着を早く洗わなければ取り返しのつかないことになるし、手も洗いたい。
次に自分がすることを考えながら、静雄は寝台に背を向けた。
けれどそれを引きとめる指先が、音もなく静雄のシャツを引いた。
「シズちゃん」
反射的に振り返ると、痛みに震える体を辛うじて持ち上げた臨也が、涙を溢れさせた瞳で静雄を縫いとめる。
「シズちゃんどこいくの?なんでいなくなっちゃうの?」
いやだいやだと壊れた玩具の様に繰り返す臨也に、静雄は動けなくなった。
こんなのは初めてだ。今まで通りなら、静雄の役目はここで終わっていたはずだ。
渋面を浮かべ、助けを求めて新羅を見やると、新羅はすっかり治療の準備を整えた医者の表情で苦笑した。
「居てやりなよ、静雄」
「なんで俺が…」
臨也が静雄をここに引きとめたがる理由が分からない。
一人が心細いなんて脆弱なことを言う男ではないし、そもそもここまで連れて来てやる義理だって静雄にはないというのに。
むすりと眉を寄せた静雄に、新羅は全てお見通しとでもいう様に口を開いた。
「君も大概鈍感だよね。ここまで臨也を運んでおきながら、今更その言葉が出てくることが僕は驚きだよ」
わざとらしく溜息を吐いた新羅は、診察台の横に回りながら臨也に視線を落とし、再び静雄を見た。
「不言実行だよ、静雄。結局、僕にああだこうだ言われて理由を探すよりも、君自身の感覚に素直に従って、信じるままに行動するのが一番だよ。で、そろそろ始めたいんだけど。どうする?」
確かに新羅の言う通り、理屈で考えるよりも感覚に従う方が自分のスタンスに合っている。
初めて臨也から電話を受けた時も、思えば考えるより先に体が動いた。
何かに怯える臨也の頼りない瞳が静雄を縫いとめ、知らず手を差し伸べてしまっていたのだ。
いつの間にか大人しくなっていた臨也に視線を落とすと、気を失ったらしく紅い瞳は固く閉じられていた。
それでも離されなかった臨也の白い指先に、心がゆっくりと、確かに動いた。
冷たくなった指先に自分の手を重ね合わせ、そしてその手をそっと解きほぐす。
すると臨也の指がほんのりと熱を帯びたような気がして、静雄は慌てて手を離して今度こそ診察室の出口を目指す。
「終わったら呼んでくれ」
無言で背中を見送る新羅に尊大な態度でそう言うと、返事を待たずに部屋を後にした。
(俺は何考えてんだ…)
怪我をする度に静雄を呼ぶ臨也。
そして呼ばれる度に、馬鹿正直に迎えに出向いてはここへ連れてくる自分。
一体いつから殺し合うだけの関係性が、歪んでしまったのだろう。
何故臨也は静雄に助けを求め、自分は律儀にそんな臨也を助けてしまうのだろう。
どうして、何故。
そんな言葉が頭の中を掻き乱す。
自分のことでさえままならないのに、臨也が考えていることなど静雄に分かるはずがない。
考えることを止めて直感で動く方が自分らしいとは言え、請われるままに臨也のそばにいてやる気になった自分に腹が立つ。
散々これまで酷い仕打ちに遭わされ、本来争いを好まない自分が殺したいと望むほど嫌いな人間に、放っておけない、目が離せないと思わされるなんて。
「ちくしょう……っ」
ぐちゃぐちゃと渦巻く感情に区切りを打つように一言毒づいて、静雄はきつく拳を握りしめた。
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お題提供元:キンモクセイが泣いた夜様
「こたえあわせ」というお題をお借りしています。