ぎゅっと寄せたファーの間から白い息を吐きながら、静寂に包まれた街を歩く。
少し前方には、当たり前のように並ぶ長い影。
臨也はずっと俯きながら、揺れる影と視界に時折映り込む大きな手を見ていた。
ポケットから僅かに覗くその手には、外へ出てくる気配はない。
目的地である静雄のアパートは、もう目と鼻の先だ。
「でけぇ月だな。満月だ」
澄み切った深い漆黒の中に、白く光る月がやけに明るい。
空に掛かる雲はほぼなく、冬の冷えた空気は何億光年も離れた場所に浮かぶ星を、鮮明に映していた。
気が遠くなるほど遠い場所に存在するものが、まるで頭上に降り注ぐように近いのは、不思議な感覚だ。
それに比べ、物理的距離が近いはずのぬくもりの方が、うんと遠く思えるなんてなんとも滑稽な話だ。
「月が綺麗に見える夜は、雲がないから寒いんだよ」
気付くはずもないと思いながらも、臨也は言葉の端に心の奥でくすぶる欲求を乗せる。
静雄に言葉の裏側を読む器用さがないことなんて、出会ったときから知っているのだから、これは単なる悪あがきだ。
「通りで寒いと思った」
まあ、綺麗だからいいか。
独り言のように呟いて、空を見上げたまま静雄の足は弾む。
遠のく影を目で追いながら、結局臨也の視線は静雄の手へと辿り着いてしまう。
意識している自分を馬鹿らしいとは思いながらも、どうしてもやめられない。
そうだね、と振り返らない背中に小さく同意して、ゆるりと息を吐いた。
悴んで感覚が鈍くなったポケットの中の指先が、じくりと痛む。
無視したいのに、何度も臨也を襲うその痛みは、胸の奥で繰り返し熱を持ってその存在を主張する。
あの大きくて温かい手と、自分のこの冷たい手を結びたい。
自動喧嘩人形と恐れられる男の手が、恐る恐る、壊してしまわないようにと優しく自分の身体に触れるあの感覚を、臨也は知っている。
その手がもし、自分の手をそっと取り、重なり合い、繋がればどうだろう。
そんな想像が、臨也の脳裡に住み着いてしまった。
それまで考えなかったのかと問われればそうじゃない。
元来臨也は静雄の手が好きだったし、あの手に触れられる心地良さを気に入っていた。
けれど明確に意識して自ら望んだのは、ある情事の後の出来事に切欠があった。
***
「ほら」
気だるい身体を固いシングルベッドに預け、横になっていた臨也にガラスコップが差し出された。
白い電球の下で光を反射するコップの中の水に目を竦め、臨也は身体を起こした。
「……うん、飲む」
コップを受け取る手が静雄の手と一瞬触れ合って、臨也は息を詰めた。
いつも、二人で過ごすこの明け方前の時間が苦手だ。
最近は特にお互いの間の空気が変化を見せて、僅かに甘さを孕んだせいで余計に居心地が悪い。
「零すなよ」
何とはなしに掛けられる他愛もない一言にさえ、静雄の気遣いが含まれているのが逆に怖い。
表だって静雄に変化はないようだから、きっと意識しているのは臨也だけだ。
自分のそんな状態が信じられないし、静雄相手だと思うと負けたようで悔しい。
それに、最近妙に静雄の手にどきりとさせられることが多く、気がつくと視線が集中してしまうのだ。
臨也はこれまで、一度もまともな恋愛なんてしてこなかった。
それどころか、人の心ほど移り変わるものなどないというのに、恋に恋するなんて時間の無駄だと一切を切り捨てて生きてきたような人間だ。
全ての「お付き合い」は、手駒として必要だったり、破局させることが目的で奪い取ったり、単なる興味本位の人間観察が目的だった。
そのどれもが、“本当の自分“を伴わない行為だった。
それが今、この歳になって初めて、誰かを好きになるという本来の意味を体感することになった。
付き合っている、という言葉がぴったりと当てはまるのか、あまり自信はない。
お互い言葉にしなくても、じわりじわりと理解し合い、いつの間にか今の関係に落ち着いたのだ。
キスはもちろん、セックスだって何度も経験したし、今更何を恥じらうことがあるのかという所までは行きついていた。
それでも静雄相手に好きだのなんだのと、歯が浮くような言葉を掛けることはなかった。
だからこそ、欲望を満たす行為はすれど、まるで思春期の恋人同士のような、目が合うだけで緊張して、手が触れるだけで心拍数が上がる、そんな恋愛らしい要素はなかった。
けれど、それでいいと臨也は思っていた。
自分たちにお似合いのスタイルは、所詮どこか歪なものでしかないと。
それが唐突に変化の兆しを見せ、自分に触れる手を過剰に意識してしまう、という形で現れた。
何がきっかけだったのかは、臨也本人にも分からない。
街で嫌と言うほど見かける仲睦まじいカップルのせいなのか、珍しく恋愛要素の含まれる小説を読んだせいなのか。
自分の変化に気付いた当初、散々考えを巡らせたけれど結局理由なんて分からなかった。
「何ぼーっとしてんだよ」
ガラスコップに注がれたミネラルウォーターを飲み干した静雄が、臨也の挙動不審に気付いた。
さすがにじっと手元に視線を注がれては、鈍感な静雄だって気付くだろう。
コップを握る細く長い、筋張った大きな手から名残り惜しく視線を逸らし、臨也は自分の手の中の水を飲み込んだ。
「別に。俺もお風呂入ろうかな」
「さっきはめんどくせぇとか抜かしたくせに」
眉間に皺を寄せながら言った静雄に、誰のせいだと苦言を吐く。
「歩くのも嫌だったんだから、仕方ないだろう」
「だから、手伝ってやるって言ってんだろうが」
「丁重にお断りするよ。風呂場でもう一戦、なんてことになったらたまらないからね。シズちゃんみたいな体力馬鹿には付き合ってられないよ」
茶化すように言うと、静雄はあからさまに嫌な顔をしてベッドに腰を下ろした。
ベッドのスプリングを軋ませ、マットについた静雄の手をさり気なく避けながら、臨也は水を一気に飲み干した。
こんなに意識している状態で、明るい場所で静雄の指が自分を触れるなんて危険極まりない。
獣じみた欲望が伴わない、優しさだけの行為にはまだ慣れない。
キスでもセックスでもなく、ただ単に肌が触れるだけの「手」に心臓を揺さぶれる自分が、どうしても恥ずかしい。
反動、というやつなのだろうか。
元々男同士である上に慣れ合いを好まない者同士であったがために、手を繋いだりべたべたと肌を触り合ったりする機会が極端に少なかったのも原因かもしれない。
それに加え、静雄はその力ゆえか、自ら他人に触れることを極端に避けている節がある。
臨也だって他人と無意味に過剰に触れ合うのは嫌いだったし、静雄も恐らく臨也の態度でそれを感じ取っていただろう。
考えれば考えるほど、ますます意識してしまう。
臨也は重い息を吐いて、空になったコップを手に立ち上がった。
「風呂?」
「あちこちべたべたして気持ち悪いしね」
床に散らかったままのシャツを拾おうとして、屈もうとした瞬間にくらりと立ち眩みが襲う。
思わず緩んだ指先からコップが滑り落ちて、臨也の足元にガラスの破片が飛び散った。
「足、切らなかったか」
「ああ、うん、…大丈夫。びっくりしたけど」
素足のままの足をガラスの破片から遠ざけて、臨也は床に膝をついた。
まさかの失態だ。そんなに疲れているつもりはなかったけれど、案外体力を消耗したらしい。
塵取りと箒がこの家にあるだろうか、と思いながら、大きな破片をとにかく拾い集める。
のそりとキッチンへ向かった静雄がごみ袋を片手に戻ってきた時、鋭い痛みが指先に走った。
「……っ」
反射的に指を引っ込めて、ぱくりと口に加えた。
血は見なかったけれど、絶対に切れた。
どくどくと痛みに脈打つ指先をもう片方の手で押さえると、じわりと血が浮かび上がった。
「何してんだよ、どんくせぇな」
「うるさい。俺は普通の人間なんだから、シズちゃんと違って簡単に指も切れるさ!」
ますます情けなさが増して、半ば八つ当たりのように声を荒げた。
何をそんなに殺気だっているのかと、静雄は眉を歪めながら臨也の足元のガラスを拾い集める。
「人が拾ってやろうと思ってんのに、勝手にやっちまうからだよ」
「シズちゃんのお世話になるくらいなら、指切ってでも自分で拾った方がマシだ」
「……可愛くねぇな」
ガラスの破片をものともせず、てきぱきと片づける静雄のつむじに向かい、毒を吐く。
そうだ、どうせ自分は可愛らしさの欠片もない、どちらかと言うと憎たらしい男だ。
そんな男が、まさかガラスを拾うその指先の案外器用な動きにさえ、動揺しているなんて。
二枚重ねのごみ袋にガラスの破片を入れ終えた静雄が、そのすぐそばに立ちつくしたままの臨也をふいに見上げた。
視線が交わり、ぱちりと臨也が瞬くと、胸元で固く握っていた手を静雄が突然掴み取った。
「ちょ、ちょっと…何!」
静雄「にしては随分力をコントロールして妻枯れた手が、傷の痛みとは別にどくどくと大きく脈打った。
溢れた血が互いの指先をぬるりと滑らせる。
「手当しねぇでどうすんだよ」
「い、いいよ!そのくらい自分でやるから!!」
「片手じゃ上手くできねぇだろ」
体温の高い武骨な手が、臨也の冷たくて薄っぺらい手をしっかりと取る。
傷口を避けながら包むように触れられて、その優しい感触に臨也の鼓動は知らず速まる。
思ったよりも丁寧に、それでいてどこか強引に。
臨也の手を引く静雄の大きな手のぬくもりが、じわりじわりと臨也を浸食する。
「できる!できるから…!」
辛うじて残った理性が、このまま心地よい感情に全てをゆだねることを拒む。
いつも無遠慮に臨也の身体に触れ、割り開き、我が物顔で蹂躙する手が、ほんの少し優しく感じられたからと言って、まさかこんなに揺さぶられるなんて。
こんなのは自分らしくない。
こんなに簡単に、誰かに感情を左右されるなんて。
掴まれた手を引き寄せようと力を入れた臨也の手は、よりきつく、静雄の手に絡め取られた。
傷口のすぐそばを握られているため、さして抵抗することも叶わず、臨也はあれよあれよと言う間に静雄によって救急箱の元へと連行されてしまった。
小さな怪我は自分で手当てしているからか、静雄は少々こなれた手つきで臨也の傷の止血をし、消毒液をかける。
「結構痛ぇだろ、これ」
消毒液が傷口に沁み、腕を僅かに緊張させた臨也に、視線を向けることなく静雄が言った。
臨也が逃れられないようにしっかりと指を掴む静雄は、慎重に臨也の血を拭う。
恐らくほとんど力など加えていないのだろう。
やわやわと触れてくる静雄の指先が、臨也の肌の上を滑って落ち着かない。
滅菌したガーゼを宛がい、筋張った指が真剣に包帯を巻く様に、どうしたって視線が向かう。
(ああ、だめだ)
本当に自分はどうかしてしまったらしい。
手当てが終わらなければいいと、ずっと静雄にこうして手を握られていたいと願っている。
認めたくないけれど、認めざるを得ないほどの欲求が臨也を困惑させる。
「ん、できたぞ」
満足げによし、と言った静雄の指が、とうとう臨也から離れていく。
自分でも驚くことに、臨也の指先は衝動的に静雄の指を逃すまいと握り締めた。
「なんだ?」
きゅっ、と力を込めると、じくりとガラスで切った傷口に鈍痛が走った。
それと同時に、臨也の体を走る熱い波が臨也をくらりとさせた。
それはまるで感じたことのない、初めて味わう充足感。
「痛むか?」
静雄の熱い指先が、臨也の手を気遣うように包む。
白い包帯と、交わる指が非現実的すぎて臨也の平静を奪う。
互いが互いの意思で結ぶ指先が生んだ感情は、単純な恋しさだった。
もっと、手を、今度は手当てなんかじゃなく、理由などなく―――。
「……っ、なんでも、ない」
「そうかよ。まあ、風呂入るんなら手にビニール被せた方がいいな」
理性に反して動く心臓を落ち着かせるかのように、臨也はそっと静雄の指を離した。
臨也の動揺などつゆ知らず、静雄は台所へ手頃なビニール袋を探しに向かう。
離れていった温もりは既に遠く、けれど臨也の肌に、記憶に、しっかりと植え付けられた。
じくりじくりと脈打つ傷口をそっともう片方の手で包み、息を吐く。
それは、臨也の中で燻っていた欲望が、確かな形を得た瞬間だった。
***
カンカン、と脆く錆びた鉄性の階段を登りながら、臨也の意識は目の前の大きな背中へと戻る。
あの時思わず握った指は、今も臨也にとって遠い存在のままだ。
触れ合う指先から流れ込む温度を思い出し、臨也は冷えた指先をポケットから取り出して、じっと見た。
臨也と静雄の手が結ばれた瞬間に訪れたものは、臨也が今まで意図的に遠ざけて来たものだ。
裏のないまっさらな安心感と、隠したままの扉を静かに開く優しさ。
そんなもの、自分にはさらさら似合わない。
小さく鼻で笑って、臨也はもう一度ポケットの中に手を突っ込んだ。
「何してんだ、さっさと入れよ」
既に扉を開けて待っていた静雄の赤い鼻っ面を見上げて、臨也は破顔した。
(責任取ってよ、シズちゃん)
いつだって臨也の中にイレギュラーを持ちこんでくる、いけ好かない男。
それでも求めずにはいられない温もりが、さらに臨也を覚束ない場所へと押し流す。
けれどもし臨也にもまだ、欲望に染まらない方法で他人と繋がることが許されるのなら、この際いっそどうにでもなってやろう。どこまで流されたっていい。
その代わり、流されるのは自分だけじゃない。
自分だけがこんな風に変わっていくのは臨也のスタンスに反する。
甘い泥に沈むのなら、もちろんこの男も一緒でなければ意味がない。
ただ恋しいと、棚から餅が落ちてくるのを待っていられるほど、臨也は気が長くないのだ。
「何笑ってんだよ」
「別に」
さて、まずはどうやってキミにこの手を取らせるか――。