月明かりを遮って輝くネオンが、視界をいっぱいに埋め尽くす。
まるで初めからそこにはなかったと言うように、行き交う人は誰も空を見上げない。
随分と遠のいた星空の下には、忙しなく日常を繰り返す池袋の街があった。
静雄も街に溢れる人々と同じように、いつも通り仕事を終えて人の流れに沿って歩いていた。
けれど静雄の足が向かう先は自宅ではなく、表通りから逸れた道だ。
たった一本裏通りに入っただけで、池袋の街を犇めいていた喧噪が遠のく。
思わずふ、と息を吐いて、静雄は人通りの少ない道を更に歩いた。
これもまた静雄にとっては日常の一部となった、いつものことだった。
特にどちらかが約束したわけではないけれど、静雄は仕事の後はこうして路地に入り、臨也と待ち合わせる。
約束がないのだから、もちろんその先は何も決まっちゃいない。
静雄の家に行くときもあれば、どこかで外食することもあるし、臨也のマンションまで行くこともある。
決定権は臨也が持っているから、きっと行く先はその時の気分次第。
けれど静雄はそのことに対して、取り立てて抗議することもなかった。
徐々に暗くなっていく道をぼんやりと歩いていると、ふいにポケットの中の携帯が震えた。
臨也だろうか、と思いながら携帯のディスプレイを見ると、表示されているのは上司の名前だった。
「お疲れ様っス。どうしたんすか?」
ほんの数十分前に別れたばかりのトムからの電話に、まさか急に仕事だろうか、と思案したものの、電話の向こう側から返ってきたのは酒の誘いだった。
言葉少なく会話を交わし、見えないはずの相手に対し、数度首を縦に動かす。
「はい、じゃあ明日の夜っすね。楽しみにしてます」
割引券をもらったと明るく言ったトムは、真っ先に自分を誘ってくれたらしい。
問題ばかりを起こす静雄を、それでもトムは笑って許してこうして遊びに誘ってくれる。
上司と酒を飲む、という誰もが当たり前に経験している些細なことが、静雄にとってはたまらなく嬉しい。
まさか自分から声を掛けられるはずもなく、いつも受け身な分誘ってもらえた時の喜びは一入だ。
「嬉しそうだね、シズちゃん」
唐突に暗がりから声が聞こえ、静雄は反射的に携帯から顔を上げた。
路地を覆う闇に溶け込むように佇む臨也の姿が、ぬうっと街頭が生んだ明かりの元に飛び出た。
「たかがお酒を飲みに行くくらいでそんなに喜んじゃって、ほんと可愛い」
「ほっとけ」
恐らく、頬を緩ませていた姿を見られたのだ。
気恥ずかしさに悪態を吐いて、携帯を乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
意地の悪い笑みを口元に浮かべていた臨也は、早々に飽きたのか既に無表情だった。
「今日俺ん家にしよう」
両手をコートのポケットに差し込んで、広い道路に向かって歩き出す臨也の背を静雄も追う。
ほんの少し後ろを黙って歩いていると、臨也が大きく欠伸をした。
目元を擦りながら瞬きを繰り返す姿に、静雄はため息を漏らす。
「んだよ、また夜更かしか」
「んー、どうだろう、俺にしては結構寝たと思うけど」
「まあ、ノミ蟲の友達なんてパソコンしかいねぇしな」
胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら、軽口を飛ばす。
空に向かって白い煙を吐き出す傍らで、臨也が笑う。
「ひっどい、シズちゃん。少なくとも、君よりは友達多いと思うけど」
「信者の間違いだろ」
「君も言うようになったね。口の達者なシズちゃんなんて気持ち悪いから、それ以上お勉強しなくていいよ」
「てめぇのが染ってんだよ」
「あはっ!何それ、俺感染病か何か?」
思えば随分、落ち着いて会話ができるようになったものだ。
本当に臨也の巧みな言葉が感染したのか、それとも臨也の言葉の棘が減ったからなのか、それは定かではない。
けれど確かなのは、それだけ静雄と臨也が同じ時間を過ごしているということだった。
こうして他愛もない言葉を繰り返す日常が、特に山も谷もなく延々と続いていく。
その内静雄はすっかり臨也に毒されて、想像もし得ない言葉を吐くようになるかもしれない。
馬鹿げたことを考えながら、煙草の灰を携帯灰皿に落とし、もう一度口に運ぶ。
その時、サングラス越しの世界の中で、黒い影がすっと沈み込んだ。
「――っおい!」
急に膝から力が抜けたように、臨也の体が崩れた。
咄嗟に伸ばした手が臨也の腕を掴み、思わず込め過ぎた力を慌てて緩めた。
「ん…、ねむ……」
「…どんだけ寝不足なんだよ」
頻りに目元を擦る臨也は、既に目を開けていられないようだった。
仕事柄臨也が夜更かしをすることが多いことを、静雄はよく知っている。
大抵寝不足で欠伸をかみ殺しているし、おまけに眠りも浅いせいですぐに起きる。
ふらふらされては面倒が増えるだけだといつも文句をつけてきたが、臨也は一向に生活を正そうとはしない。
それでも今まで、まともに歩けないほど眠気に襲われている臨也を見たことはなかった。
このまま歩いて行くのは難しいだろうと、静雄は呆れたように息を吐いた。
なんとか真っ直ぐ立った臨也を強引に引っ張り、静雄は明るい通りでタクシーを拾った。
もちろん代金は臨也のポケットから拝借するつもりだ。
「肩貸して」
タクシーに乗り込んで早々、臨也は吸い込まれるように眠った。
人の目がある場所で無防備に眠ることなど、臨也はこれまで一度もしなかったはずだ。
僅かな違和感が静雄を悩ませたが、それほど眠気が強かったのだろうと、静雄は思考を中断した。
けれど、あまりに静かに呼吸を繰り返す臨也の寝顔を見ていると、訳の分からない靄が静雄の腹の底に漂い始めた。
肩に乗せられた臨也の小さな頭と、重さを感じさせない薄い体を無性に怖いと感じる。
なぜそんなことを考えたのか、この時の静雄には知る由もなかった。
やがて見慣れた背の高いマンションの前で、タクシーが止まる。
微かな寝息を立てる臨也を揺すり起こし、二人でタクシーを降りた。
終始無言のまま重たい瞼と格闘している臨也の傍らで、静雄は同じように黙り込んでいた。
いつも通りであればこの後は遅い晩御飯を食べて、終電が迫る頃まで一緒に過ごすか、夜を跨いで翌朝別れる。
けれどこの様子では、食べ物さえまともに喉を通らないだろう。
「今日はこれで帰るぞ」
「…え?」
厳重なロックを解除してオフィス兼リビングまで進んだところで、静雄は臨也のゆれる背中に言った。
振り向いた臨也は、先ほどまで薄らとしか開いていなかった瞳を真ん丸とさせて、本気で驚いているようだった。
「お前、今すぐ寝ろ」
「へ…、平気、だって。寝不足なのはいつものことだし」
「今日のはいつもよりひでぇだろうが」
精一杯いつも通り振る舞おうとする臨也に、静雄は眉を歪めた。
見え透いた嘘だ。隠せているとでも思っているのだろうか。
「眠れる時に寝ろ。情報屋だからそれはできねぇって言うなら、やめちまえそんなクソみてぇな仕事」
吐き捨てるように言うと、臨也はそれまでぼんやりとさせていた目を吊り上げて、静雄を睨んだ。
「情報屋は俺のアイデンティティだ。シズちゃんにそこまでどうこう言う資格なんてないだろ。俺が平気って言ってるんだから、それでいいじゃないか。君には関係ないことだろ」
「………そうかよ。勝手にしろ」
静雄がどれほど譲歩して、どれほど臨也の体調を気遣っているかなんて、こいつには伝わらない。
伝え方が下手だということは百も承知しているけれど、臨也だって受取ろうとしないのだからどうしようもない。
だからいつも、静雄は諦めてしまう。
これ以上こいつの中に踏み込むことは無理だと、背を向けてしまうのだ。
「帰る」
一言そう言い残して、だだっ広い部屋に立ち尽くす臨也を置いて部屋を出た。
言い合いなんて日常茶飯事だし、今までもっと醜い言葉をぶつけ合ったことも多々ある。
どうせ次に会うときにはお互い何事もなかったようにけろりとして、同じ道を歩くのだ。
燻る想いを眠らせたまま、上辺をそっと撫ぜるように。
***
臨也は一人、電気の消えた玄関に立っていた。
静かに閉じた扉は、遠ざかる足音さえこちら側に伝えてこない。
それでも臨也は、じっと開かない扉を見つめていた。
「……ばか」
やがて忘れていた眠気にぐらりと視界が揺れて、壁に背中を預けて座り込んだ。
眠くて眠くて、たまらなく眠たいのに、眠っても眠っても眠った気がしない。
それなのにほんの数分、たった数分静雄の肩に凭れて眠った時は、眠れたという実感があった。
静雄を家に呼んだのは、手っ取り早く眠ろうと思っていたからだ。
セックスをすれば疲れ果ててすんなり眠ってしまえる。
静雄が隣に寝ていれば、朝までぐっすりと惰眠を貪れる。
認めたくはないけれど、静雄の寝息はどうしてか臨也を心地よい睡眠に導く。
子供のように高い体温も、無駄に長い腕も、どんな睡眠導入剤より効果があった。
(だから一緒に寝てなんて、とても言えない)
深く息を吐いて、臨也はとうとう冷たいフローリングに頭を預けた。
もう体が言うことを聞かない。瞼が勝手に閉じてしまう。
コートに包まるように体を縮めて、臨也は強い眠気に身を任せた。
to be continued...
なぐ様(pixiv)とのリレー小説。
第1話担当:なあお