その日の夜はまさにグランドラインらしい突然の嵐で、嵐を抜けた後はクルーに大きな疲労が残った。
普段は少しの夜更かしをして楽しむ女性二人組は早々に床につき、今晩の船番であったゾロ以外の男たちも連れ立って男部屋に引っ込んだ。
ただ、サンジだけが忙しなくキッチンで動き回っていたが、ゾロにとってはそんなことは毎度のことであったので、見降ろしたキッチンの灯りが夜中を過ぎても煌々としていることなんて全く気にも留めなかったのである。
抜け切ったとはいえ、海には嵐の名残の荒波がしつこく残っている。
時折大きく揺れながら進むメリー号は、いつにもまして静かだった。
雨で湿った見張り台は、嵐の影響で起こる風で余計に寒い。
ゾロは持ち込んだ一枚のモーフに包まって、ぞくぞくと身震いをしてから目を閉じた。
これほど辺りが真っ暗だと、見張りもへったくれもない。
しばらく目を閉じたまま耳だけを鋭敏に研ぎ澄ませていると、ロープが軋む音が一定の間隔で聞こえる。
やがて軽い靴音が二つ、狭い見張り台に響いて再び静寂が返ってくる。
音が誰のものであるかなんて、その気配と音の軽さが雄弁に語っているから、ゾロは目を開けない。
じっと頭の後で腕を組んだまま冷えた空気をゆっくりと吸い込みながら、相手が動くのを待つ。
「……なあ、おい」
低い声がぽつりと呟き落とされる。
それでもゾロは知らん顔をして、目を閉じたままだ。
あんまり構うと奴は反対に逃げて行ってしまう。
まるで猫のような習性を持っているから、これが一番いい対応なのである。
「今日は俺、ここで寝るからな!」
聞いてんのかコラァ!とすかさず足技が飛び出して、ようやくゾロはちらりと目を開けた。
そこにはムスっとした唇を上げてこちらを見下ろす、ひよこ頭のコックが突っ立っている。
(拗ねてる…)
攻撃的なコックの所業にはもう慣れっこだが、訳のわからない宣言に多少呆れてしまう。
小さくため息を零してゾロは聞かなかったフリを決め込んだ。
さて、この後どうするものかと気配だけでサンジの様子を窺っていると、いつになく大人しく、サンジはゾロのそばにしゃがみ込んで、控え目に服を摘まんで数回引っ張った。
「俺も、ここで寝る…」
ゆさゆさ、と小さく肩を揺らされて、ゾロはもう一度目蓋を開く。
どことなくしょげているように見えて、そんな表情もまたいいもんだとこっそりにやつきながら、ゾロは素っ気なく「好きにしろ」と言ってやった。
ゴーサインが出たと分かると、サンジはいそいそとゾロのモーフを奪い去って頭からすっぽりと隠れてしまった。
「こら、コック。そりゃ俺のモーフだ」
モーフが欲しけりゃ自分で持って来やがれ、と盗られたモーフの端を持ち上げると、サンジがその隙間からゾロの首元に頭を摺り寄せてくる。
ギシリ、と床を鳴らして、サンジの体重がゾロの肩に乗せられた。
やんわりと触れてくる指を捕まえると、細い息が静かに吐き出された。
強張っていた身体から不自然な力が抜ける。
(なんだ?)
ここに来る前に風呂に入ってきたのか、柔らかい髪に触れれば少し湿った感触がする。
こんな状態で吹きさらしの見張り台にいれば、どんなに頑丈な身体でもさすがに堪えるだろう。
それでもわざわざ上って来て、素直じゃないサンジがここで寝たいと自ら言った。
そこには何かしらの理由があるに違いない。
「妙に積極的じゃねぇか。ヤるか?」
「何バカなこと言ってやがんだ、クソ剣士。お前ぇはそんなことばっか考えてんのか?」
軽口を叩く元気はどうやらあるらしい。
ぎゃーぎゃーといつも煩い口は健在だが、どうにも覇気がない。
ぐっと首の後ろを手のひらで引き寄せると、従順に凭れてくる、そんな仕草も常にはないものだ。
大きく船体が揺れる度に、身体に籠る力と見たこともない脅えの色も。
(ああ、そうか)
今日は嵐だった。波はまだ高く、風も強い。
いつかルフィに聞いたことがあった、サンジの過去がゾロの脳内を過る。
暗い海。荒れ狂う波。取り残され、餓える恐怖。
縋るように伸ばされた手を握ったまま、サンジの身体を引き剥がす。
途端にぐるぐると巻いた眉尻を情けなく下げたサンジを、ただ真っ直ぐ見つめる。
見開かれた蒼い瞳から目を離さずに、向かい合うように狭い見張り台の中を動く。
「そんな顔すんな」
コックの命とも言える手が、冷え切って冷たく硬くなっている。
その指を解きほぐすように一本一本、形を確かめながらゆっくりと辿る。
「みんな無事だ。お前ぇも無事だった」
最後の一本を辿って、ゾロは再びサンジの白い手を自分の手で包んだ。
いくら細くて頼りなく見えても、戦うコックの指は握りダコや切り傷で、誰よりも強いかもしれない。
そうして乗り越えて来た証を思えば、今夜の嵐なんて大きな壁ではないはずだ。
「俺もてめぇも、ここにいる」
握った手を軽く引いて、近づいたサンジの唇の横に軽く触れる。
抵抗しないサンジに少し物足りなさを感じながら、ゾロはサンジの背中に片腕を回した。
「…マリモのくせに、生意気なんだよ」
いつもより少しだけ弱々しい悪態が飛び出て、ゾロは口角を上げて笑った。
反撃できるなら大丈夫、そんなに弱いタマじゃない。
ただ、そろそろと伸ばされたサンジの左腕が、妙に得した気分である。
どうせなら口の端なんて遠慮してやらず、堂々と口内を貪ってやればよかった。
「おいこのマリモ野郎、その背中の手はなんだ」
「……なんだ?」
「誤魔化すんじゃねぇよ!てめぇは黙って俺様に肩貸しときゃいいんだ!」
どうやら脳内の欲望が手の動きに現れてしまっていたらしい。
シャツの中から手を引っこ抜かれて、腕の中の金色の猫はとうとう逃げてしまった。
それでも肩を貸せ、と言っている辺りがまた可愛いなんて思ってしまうところだ。
並んで座ったサンジは、今度はゾロと半分ずつモーフに包まる。
小さな頭がこつんと肩に乗せられて、そのまま夜が更けていく。
(まあ、こういうのもたまにはいいな)
頭の後に腕を組みなおして、ゾロは少しずつ雲が晴れ始めた夜空を見上げた。