vestige

月明かりさえ差さない、静かな夜。
俺は機械的な、けれど酷く優しい手つきでアレンの髪を梳いていた。

アレンの左眼が潰されたという凶報を聞いたのはもう随分と前になる。
任務先で大怪我をした、ということも。
その時俺はアレンの身を案じると共に、どこかで歓喜の声を上げている自分に気付いた。

なんて疚しくて、独り善がりで、傲慢な心なのだろうと。
そしてそんな自分があったのだと、驚かずにはいられなかった。
けれどこれで漸くアレンを自分だけのものにできるのだと思うと、
呪われた左目など潰された方がよかったのだと、思ってしまう。

勝手な言い分だということは理解している。
あいつにとっては父親と自身を繋ぐ、唯一の証なのかもしれない。
どれほど異質で未知なるものだとしても、消えないで欲しいと、思っているのかもしれない。
それでも俺は、アレンがやっと解放されたのだと、安堵したのだ。

しかし―――

暫く続いた任務から戻ったアレンには、消えたはずの左眼が在ったのだ。







『神田!』

自室を目指して歩いていた途中、突然ここ最近聞かなかった声が、俺を呼んだ。
廊下のど真ん中こんな風に名前を呼ばれたことなどなかった。
それに心なしか頼りなくてどこか弱々しい、縋るような色合いが声には含まれていて。
慌てて振り返った時にはもう、アレンは俺の腕の中にいた。

『モヤシ…?』

身体がぶつかり合う鈍い音がして、飛び込んできた小さい身体がしがみつくように寄せられる。
腰周りに回された腕に驚きながらも呼びかけるが、応答はない。
ただ抱きつくというよりも縋りついてくるアレンの腕の力が強まって、
俺は何も詮索せずに、アレンの背中へと腕を伸ばした。

『場所が場所だ。俺の部屋へ来い』

耳元で囁いた言葉に顔は上げずに頷いたアレンの頭をくしゃりと撫でて、俺は苦笑した。

腕を引いて歩いている間、アレンもそして俺も、一言も言葉を発さなかった。
部屋へ連れて帰ってベッドに腰掛けさせても、アレンは俺の団服の裾を掴んで俯いたまま、
「すみません」としか言わなくて、俺はどう対応してやればいいのか考えあぐねていた。

不気味な程静かな空気はとても重く、居心地が悪い。
真っ暗な部屋の中では俯いているアレンの表情全く窺えない。
ひょっとすると、泣いているのかもしれない。
逆に泣くことは弱さだと、戒めを解けずに耐えているのかもしれない。

迷い悩み、そして傷つき涙することが悪い訳ではないが、その弱さをアレンが隠していたいというのなら、せめて俺が弱くなれる場所になって、こいつごと包んで受け止めてやればいい。
密かにそう思って、アレンの頭を上からすっぽりと包み込んだ。

『弱音は吐いたっていいんだ。見られたくねぇんなら、こうして隠していてやる』

だから泣きたければ泣けばいい。我慢することはないのだと。
俺に言えたことではないかもしれないけれど、それでも伝えたかった。

『神田…』

立ち止まらない、歩きつづける。
そう言っていたアレンには酷なことを言っているかもしれない。
けれど人は誰も完全じゃない。傷を癒すには、曝すしかないのだ。
例え隠し続けても、傷口は消えずにその重さと痛みを漸増させるだけ。

驚いたような声がした後、再びアレンの手が俺の背に伸ばされた。
そして「ありがとう」と一言呟いて、食いしばった歯の隙間から微かに嗚咽を漏らしていた。







『僕はいつ、闇に飲み込まれるかもしれない』

アレンは眠りにつく前に、弱々しく、けれど無感情にそう言った。
初めはその真意が掴めなくて、眉を寄せるだけに終わったのだけれど、
今こうして寝顔を眺めながらさらさらと気持ちよい髪に手を通ししていくうちに、唐突に理解した。

アレンの左眼の上にあるペンタクルが濃くなっている。
つまり潰された左眼は復活し、その呪いの強さを、そして"マナ"という存在を、増幅させたのだ。
以前よりも増した禍々しさはもう、アレンの透き通るような銀の髪では隠し切れない。

進化する呪い。深まる闇。
植え付けられていく、嘗て己が愛した父親を"アクマ"にしたという罪
ひたひたという足音が聞こえてきそうな、そんな忍び寄る恐怖。
恐らくその底知れぬ影に、アレンは独り耐えていたのだろう。

頬に残る微かな涙の後を指の腹で辿りながら、俺は静かに息を吐いた。

死んだ者は時が経つにつれて美化され、その地位を除々に上げていく。
己の犯した罪も、過ぎ行く時の中で罪悪感を逓増させていく。
決して消えない罪の痕跡(あと)を背負い、忘れられない面影を追い続けて。
傷ついて生きていくことが、"立ち止まらずに歩きつづけること"に、成り得るのだろうか。

左眼の痕が消えない限り、アレンの中で絶大な存在感を誇っているマナを、本当の意味で超えることはできないのかもしれない。
愛しいという気持ちの方向性が違っても、死んだ人間に勝てる筈がない。

それでも俺はいつかお前を――マナを超えてみせる。



そして必ずこの愛しい存在の中に巣食う闇を、傷痕を。
全て俺の手で、取り除いてみせるから。

こうだったらいいなっていう先走り。