ある日僕は猫を拾った。
それはそれは綺麗な毛瞳の猫で、ブルーサファイアに似た色をしていた。
少し汚れた毛並みを洗い流してやると、ふわふわでつやつやの毛。
僕があまりの優雅さに見とれていると、血統書付きでもおかしく無いくらいのその猫は、にゃあ、とひどく可愛らしく鳴いた。
僕はさっそく近くのペットショップで鈴付きの首輪を買って、その猫に付けさせた。
猫が動くたびにちりん、と音が鳴って、それさえも愛らしく思える。
僕は改めて拾ってきてよかった、とやわらかな猫の頭をひとつ撫でた。
―――そう、そこまではよかったんだ。
撫でてやると気持ちよさそうに綺麗な目を細めた猫は、けれど途端に身体を毛羽立てて、じりじりと僕から後退していく。
気に障ったのだろうか、と慌てて手を引っ込めたとき、”それ”は起こったんだ。
「…え、えぇぇえ!?」
数秒後、その猫は見事な毛並みを捨て去った姿でそこにいた。
あまりにも非現実的なことに、僕は腰を抜かしたみたいに床に手をついてその姿を見上げた。
その猫――いや、その彼は僕らと同じ、人間のカタチをしていた。
「うわあぁっ…!」
僕と彼の視線が絡み合うまでの数秒間、妙な緊張感が漂う沈黙が訪れて、そのすぐ後に彼は顔を真っ赤にさせて、素肌をなるべく隠せるようにとしゃがみ込み、腕で身体を包んだ。
「何、なんで君人間に…!?あーっ!とにかく何か服!!」
まるで逃げるみたいにして僕はリビングを飛び出て、手当たりしだいに服をかき集めた。けれどそのどれもが彼には小さくて、結局着せてあげられるものがなく、あたたかめのモーフのなかに彼は一旦落ち着いた。
とりあえず喧騒がおさまった頃、毛布に包まったままいかにもしょんぼりと耳を垂らした彼は、しっぽまでだらしなく床に流れて、居心地が悪そうに俯いていた。
よくよく見ればその容姿は秀麗で、艶やかな青い髪に形のよい鼻と顎、切れ長の瞳は猫の姿のままに澄んだ海の色をしていて、髪と同じ色の睫が長く生えている。
毛布の中に隠れた四肢はわりと華奢なのに、程よくついた筋肉と長い手足。
まさに非の打ち所が無い、とはこのことだろうと思うほどに、彼は綺麗だった。
「……僕の言葉分かる、よね?」
突然猫から変身してしまった彼に、今更ながらに言葉が通じるのかが気になって尋ねてみる。
すると彼は視線だけをこちらに向けて、聞き逃してしまうほどに小さな声で肯定した。
「まず、名前は?ある?」
「名前は、怜。日渡怜」
ぴくり、と耳を震わせた後、彼――日渡君は、確かな言葉で名前を紡いだ。
猫だった人と話をしているなんて、とは思わないでもなかったけれど、好奇心はあった。
彼は耳によく馴染む綺麗なテノールで、僕はもっと話をして、この声を聞いてみたいと思った。
「日渡君だね。僕は丹羽大助」
「にわ、だいすけ?」
「うん、そう。で?どうして人間の姿になったの?ていうか、日渡君は猫なのかな、人間なのかな」
「気持ちよくなると、姿が変わってしまうんだ…。どちらかというと、猫だけど」
日渡君の説明に、そういえば頭を撫でてやったときに気持ちよさそうだったな、と思い出す。
まさかそんな当たり前の行動が引き金になっていたなんて、思いもしなかったけれど。
僕がそんな思考に沈んでいると、それまで垂れていたしっぽは微かに揺れていて、下がってしまっていた耳も心なしか起き上がっている。
もしかしてこちらの様子を伺っているのだろうか、と視線をやると、ぱたりとしっぽは床に這った。
あまりの可愛らしさに彼は猫なのだと改めて認識させられ、僕は知らず笑みを漏らした。
「耳もしっぽも、ついてるもんね」
未だに小刻みに動く耳への好奇心を捨てきれなくて、僕はとうとう手を伸ばした。
それは本当にただの好奇心だったのだけれど、どうやら彼を怯えさせてしまったようで、僕の手は耳に届く前に打ち落とされた。
ぱしり、と乾いた音が響いて、僕は驚き暫し動きを奪われる。
日渡君はあからさまにしまった、と少し傷ついたような顔みせていて、僕は遣る瀬無くなる。
彼がそんな顔をする必要は無いのに、僕のせいなのに、と。
「ごめん、嫌だった?」
「いや…。僕もすまなかった。ちょっと、驚いただけなんだ」
漸く立ち上がりを見せていた耳もしっぽも垂れ下がってしまったけれど、なぜか彼の上半身が僕の方へと伸びてきて、肩に掛けられていた毛布が音もなくずれ落ちる。
その様に目を奪われる暇もなく、日渡君が僕の手をそっと取った。
「叩いたりして、ごめん」
「え…うわっ!ちょ、ひゃ…っ!」
長い舌が形のよい唇から覗いたかと思うと、僕の少し赤く腫れた手の甲に、舌がひたりと付けられる。
そのまま腫れたところを静かに舐めてくれる日渡君を見ていると、酷く悲しそうで僕は何も言えなくなった。
「も、もう大丈夫だよ!ありがとう、日渡君」
黙っていればいつまででも舐め続けそうな様子の日渡君に、僕はまるで幼い子を説得するようなし心境で告げた。
すると彼は少し手の甲から舌を離して、こちらの機嫌を伺うかのように見上げてくる。
けれど握ったままの手は離されなくて、僕はその握られた手に伝わる彼のひんやりとした体温にどくりと鼓動を鳴らした。
「ひ、日渡君?」
「まだ…、僕の気が済むまで」
「えっ!?うわぁ…っ」
再び僕の手の甲に落とされた視線と、ゆっくりと伸びてくる彼の蕩けるように赤い舌に今度こそ僕の心臓ははち切れそうになって、咄嗟に腕を引いてしまう。
そのままの勢いで僕はフローリングに頭をぶつけてしまい、したたかに腰を打った。
しばらく痛みに耐えていると、自分以外の重みに気がついて視線を上げる。
すると一緒につんのめってしまったのか、僕の身体の上に跨るようにして日渡君がさらさらの耳をぴくりと動かしながらそこいた。
「……あ…、」
見るものを魅了してしまう綺麗な彼の瞳は、僕を真っ直ぐ見つめながらも驚きで見開かれていた。
漏れた声は小さく拾い逃してしまうほどだけれど、あまりに近い距離では僕の耳にすぐに届いた。
「ひわ…たり、く…」
ゆっくりゆっくりと、彼の長く青い睫が近づいて、触れてしまうのではないかと思う。
細められた瞳は猫の鋭さと人間の甘さを孕んでいて、そのギャップにうっとりとしてしまう。
流されるようにして僕は目を閉じて、この一瞬を彼に預けた。
そうすればきっと、今僕の中で燻っている不可解な熱の意味が、分かるのだと思った。
「んっ…ぅ、ふ…」
乞われるがままに口付けを受けると、口内に侵入してくる舌に己のものが絡めとられる。
緩く巻きついてくる舌は驚くほど熱く、そしてやけにしっくりとくる感覚が快楽を情緒させた。
水音を室内に響かせて、彼の舌が僕の口内から去っていく。
それをどこかで名残惜しいと思っていた僕は、次の瞬間現実に引き戻された。
「うそ……」
僕のお腹の上に乗っていたのは、拾ってきたときの姿のままの猫だった。
尻尾をふわりと揺らしながら、どこか落ち着きのない様子で猫は自分の口元をこすった。
「そ…か、日渡君は気持ちよくなると変身するんだよ…ね?」
「にゃあ」
まだ呆然としたまま、まるで言い聞かせるように呟いた言葉に、日渡君は可愛らしく鳴く。
ちりんと首元で鳴る鈴の音も、こちらを見つめるブルーサファイアの瞳も彼のものだ。
けれどあまのに突然のことだったために、僕の思考回路はこんがらがっていた。
寝転がったままの僕の身体の上を軽い身体が移動して、頬のすぐ傍で止まる。
僕がその様子を黙って見守っていると、どこか迷うような素振りを見せた猫はぺろりと僕の頬を、小さな舌で舐めた。
「にゃう」
「ふふ。ま、いっか」
可愛らしい仕草は猫そのもので、もう何だかどうでもよくなって、笑みまで零れる。
細い身体を両手でそっと抱き上げると、今度は逃げずに大人しく触れさせてくれた。
それがまた嬉しくて、今はもう猫の姿に戻ってしまった日渡君に優しく微笑んだ。
(猫に戻ったっていうことは、僕とのキス、気持ちよかったってことなんだよね?)
某方の絵茶で生まれた小説。
2007.03.15 加筆修正