1:恋と呼べたでしょうか

『―――シズちゃん』

小さな息遣いだけが続く沈黙の後に、ぽつりと呼ばれた名前。
他に言葉は何もない。必要なかった。
呟かれたその一言の中に、臨也が求める全てが込められている。

「今どこだ」
『分かん、ない…』
「池袋か」
『……うん』

静雄はそこで電話を切り、上着を乱暴に掴んで家を出た。
ビルに埋め尽くされた暗い空が圧し掛かる街を、急ぎ足で進む。
苛立ちと、それに勝る焦燥感に突き動かされる。

臨也が新宿へ拠点を移したすぐ後、今日のように何の前触れもなく静雄の携帯が鳴ったことがあった。
着信は未登録の見知らぬ番号から。
僅かに不信感を抱いたものの、静雄は特に深く考えずに通話ボタンを押した。
その時、受話器の向こう側に居たのは臨也だった。
予想もしなかった相手からの着信に、しばし言葉を失った静雄は、その数秒後受話器越しに怒りを爆発させようとしたのだが、すぐにその勢いはへし折られることとなった。

「シズちゃん」と名前を呼ぶ臨也の声は弱々しく、荒い呼吸音が耳を震わせた。
走って呼吸が乱れているという単純な理由ではないと、何度も臨也を追いかけた静雄にはすぐに分かった。
臨也が自分以外の人間に、ここまで息を荒げるほど追いつめられるはずがない。
臨也はそんなに軟ではない。憎らしいほどに図太く、気が付くとするりと壁さえ通り抜けそうなほどに身軽く逃げ果す。
そう、臨也は簡単に誰かに弱みを見せるほど、弱い人間ではないはずだった。

感覚が示すままに走り、辿りついた路地で静雄が見たものは、冷たいコンクリートの壁に力なく体を預けて小さく息を繰り返す臨也の姿だった。
既に陽は落ち、街の明かりさえ届かない細い路地の道に飲み込まれた影。
足元に広がる血の色さえ黒く、全身を黒で包んだ臨也はあまりに危うく、暗闇に溶けて消えてしまうような錯覚に陥る。
ただぽっかりと、臨也の青白い頬だけが闇の中に浮かんで見えて、辛うじて静雄をくだらない想像から引き戻した。

そして今、静雄はあの日と酷似した光景を前に立っている。
もう何度目かの光景。
暗がりに浮かぶ白い顔と、黒い血。
頽れた細い体に手を伸ばせば、元々赤い目をさらに赤く腫らせ、体温の低い手が静雄を掴んだ。

「シズちゃん…シズちゃん……っ」

縋るように静雄の腕の中に収まった臨也は、小さくしゃくり上げながら静雄の背中をぎゅっと握りしめる。
人肌に縋って泣く姿は、まるで赤子だ。
気付かれないように息を吐いて、臨也を抱き上げるためにわき腹に腕を通す。
ぬるりと生温かい感触が静雄の手を掠めたのだが、今は知らぬふりをした。

臨也の右腕を肩に回し、ひざの裏に左手を差し込んで片腕で持ち上げる。
出掛けに掴んで来た上着を臨也の体に掛けてやり、静雄は空いた右手で尻のポケットにある携帯を探った。
向かう先は新羅のマンションだ。
臨也を連れていく、と一言告げただけで新羅は全て心得たと言う風に頷いて、電話を切った。

大人しく体重を預けている落ち着いた様子の臨也に安堵して、静雄は夜の池袋を歩き始めた。
こうなった臨也と、普段の敵意をむき出しにして挑発してくる臨也とのギャップに、静雄は未だ慣れることができない。
否、慣れろと言う方が無茶な注文だ。
殺したいと思い、長年憎んで来た相手に自分の弱った姿を晒し、助けを求めて縋りつく。
余計なことばかりに良く口を回し、大切なことは何一つ言わない臨也の行動の真意など、所詮静雄には到底理解できなかった。


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