2:確かめた孤独

鼻につく薬品の臭いに、ここが新羅のマンションだとすぐに分かった。
次いで周囲を探ろうと小さく身じろぎ、腹部の痛みに自分の置かれた状況を理解する。
危ない領域まで足を突っ込みすぎた結果だ。
そもそも臨也はこうなることをある程度予期していたのだから、今更驚きもしなければ後悔もしていない。

(静かだな)

リノリウムの天井をぼんやりと見つめて、ただ息を繰り返す。
それは酷く無意味な時間で、臨也にとっては苦痛な時間でしかない。
誰とも繋がらない孤立した時間は、臨也を追いつめる。
それを意識すると怖くなって、そこにはもう居るはずのない姿を求めて視線を巡らせる愚かさに、臨也はいつの間にか詰めていた息を小さく吐いた。
丁度その時、室内に満ちていた静寂を破り、マンションの扉が開く音が響いた。

「静雄?どうしたんだい?」
「忘れモン」

壁の向こうで交わされる会話に、臨也は再び息を詰めた。
何故静雄がここに居るのだろう。
寝起きのぼやけた状態では頼みの頭も上手く回転してくれず、近づく足音に臨也は咄嗟に目を閉じた。

ガチャリ、とドアノブが回る音がして、足音が少しずつ迫る。
微かに香る煙草の臭いに、臨也の心臓が益々早鐘を打つ。
とうとうベッドまで近づいた静雄の気配は、すぐ横の椅子を探り、何かをポケットに仕舞ったようだ。
見つかったのなら早くここから出て行って欲しい。
震えそうになる目蓋をなんとか閉じたまま、臨也は柄にもなく祈った。
けれど臨也の願いに反し、静雄の気配は更に近づいた。

そして、さらりと流れる前髪。
撫ぜる指先は、その持ち主を疑いたくなるほど優しく、そして温かい。
目元に掛かっていた前髪を払われ、しばしの沈黙の後、漸く気配が遠ざかる。
そのまま無言で去っていった静雄は、ゆっくりとドアを閉めた。

「見つかった?」
「ああ。遅刻したらトムさんに悪ぃし、もう行く」
「うん。臨也のことは任せてよ」

どくんどくんと、自分の心臓が脈打つ音が全身に響き渡る。
強張った唇が小さく息を吸い込むと、みっともなく震えた。

「……なんで、」

なんで、優しくするの?

喉の奥が熱くなって、残りは言葉にならなかった。
これ以上声を出せば、きっと泣いてしまう。

両手で目元を覆い、唇を噛みしめた。
あんな風に自分に対して優しく触れる静雄を、臨也は知らない。
いつも苛立ちに歪んだ口元と鋭い眼差しに、目元と同じくらい鋭く神経を逆立てた静雄の手は、臨也を思いっきり殴るか、あちらこちらで引っこ抜いたものを振りかざして来る。
後はお互い無意味に罵り合うだけで、そこには先ほどのような穏やかな沈黙など存在しない。

(俺に優しいシズちゃんなんて…)

優しくしてくれることをどこかで望んでいたくせに、そんなのは静雄じゃないと否定する自分がいる。
静雄から暴力をなくせば、元は心根の優しい普通の青年だということは嫌というほど理解している。
けれど静雄と臨也の間から暴力が消えることなど、あるはずがなかった。
静雄に嫌われることを数えきれないくらいやってきたし、好かれようとも思っていなかった。
だから自分に優しい静雄なんて偽物のようなもので、反吐が出るほど気持ち悪い。

それでも、どうしたって、胸の中に閉じ込めたものを忘れ去ることができなかった。
そしてそれは、静雄が少しずつ友人の輪を広げるに連れて、ただの思慕から恐れへと変わった。
暴力という切欠でしか静雄の視線を自分に向けられない苦しさが臨也を追い詰めて、どんどん遠ざかって、いつの間にか“人間らしさ”を身に付けた静雄に取り残される孤独が臨也をおかしくする。

どんなに人間を愛していたって、人間から愛が返って来ないことなんて、とっくに知っている。
捻くれた自分の趣向に、人は「お前は普通じゃない」と言うけれど、普通じゃない自覚だってある。
だからこそ、臨也には自分と同じ普通じゃないバケモノしかいなかった。
どんなに愛しても愛されない孤独から抜け出したくて、人間に愛されないバケモノに依存した。

「いつから君は、そんな風に優しくできるようになったの」

呟くと、それは酷く現実味を帯びて臨也に降りかかった。


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お題提供:キンモクセイが泣いた夜

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