静雄は確実に“ニンゲン”に近付いている。
憎んで憎んで、視界に入れただけで怒りを爆発させるほど嫌いな臨也に、たとえ大怪我を負っていようと、まるでガラス細工に触れるようにそっと触れるなんて、出会った頃の静雄にはとてもできない芸当だった。
傷つけることしか知らない自分と同じだと思っていたはずのバケモノは、臨也を置いて変わっていってしまったのだ。
「……ははっ」
こんなことばかり考えるなんて、それこそ無意味で馬鹿げている。
とにかく落ち着かなければとゆるりと目蓋を持ち上げて、静雄が出て行った扉に視線を向ける。
そこにあるのは現実だけで、この部屋で臨也は確かに独りだった。
自動喧嘩人形とただ恐れられ、忌み嫌われるだけの静雄はもういない。
いたのはいつまでたっても素直な声を上げられない、最低最悪の、情報屋ひとり。
自分の先に繋がる糸はどれもこれも、見返りと利害だけで繋がった脆いものばかり。
ひとり、ひとり。
臨也はひとりだ。
高校生の頃はひとりが怖いなんて、考えたこともなかったのに。
あの日、雑踏も遠のいた池袋の片隅でぼんやりと止まらない血を眺めていた時、そのまま独りで死ぬのが急に怖くなった。
誰にも気づかれず、愛されないまま死んでいく未来を想像して、体が震えた。
出血で朦朧とする意識の中、助けを求めて見返りなく駆けつけてくれる相手なんていないことを思い知らされた。
そうなってやっと、自分が“助けて欲しかった相手”を見つけただなんて、なんとも皮肉な話だ。
それでも、ただ名前を呼んだだけで、馬鹿みたいに息を切らせて自分を迎えに来てくれる人がいて。
救いようがないくらいお人よしの温かい手が、何も言わずに手を差し伸べてくれたことが、本当は、たまらなく嬉しかったなんて。
(死んだって、絶対に言えないよ)
どれもこれも、一度目を瞑って見ないふりをした臨也には、眩しすぎた。
それでも忘れられないその手の温かさを求めて、きっと臨也は何度でも呼んでしまう。
弱っている人間に手を出せない優しさに付け込んで、どんなにあざとい人間だと罵られようとも。
「――シズちゃん……っ」
独りは、こわい――。
ぞくり、と足元から冷たいものが這い上がってくる感覚に、思わず自分の肩を抱きしめた。
それこそ、こんなことで怯えるなんて自分じゃない。
誰かに縋りたいとか、そばに居て欲しいとか、生ぬるい慣れ合いはいらないはずなのに。
何かをしていなければ、忘れていられない。
早く事務所に戻らなければと、無理矢理体を起こして床に足をつける。
ちらりと横に目をやればいつの間にか時計は昼を指していて、新羅と静雄の会話から推測すると目覚めたのは朝だったはずで、時間の流れに驚いた。
ふらつく体を強制的に扉に向けて、引きずるように前に進む。
ほんの少しの距離なのに、息が上がって苦しい。
腹部を襲う鈍痛と、重たい頭と火照った体は思うように動かない。
それでもなんとかドアノブを回して廊下に出ると、丁度新羅とはち合わせた。
「臨也!?ちょっと、何考えてるんだい?まだ歩けるような状態じゃ…」
「…帰る」
「帰るって、馬鹿なこと言わないでよ!」
慌てて引き留めようとする新羅を無視して、臨也は真っ直ぐ玄関を目指す。
やけに自分の吐く息が熱く、視界が揺らぐ。
傷口から発熱しているのだろうと、まるで他人事のように考えながらぞんざいに靴を履いた。
新羅のマンションから出さえすれば、後はタクシーを呼んで帰ってしまえばいい。
「臨也!」
強い口調で静止する新羅の声が、頭にずきりと響く。
急激な痛みに立ち眩みが臨也を襲い、このままでは立っていられない。
歪んだ視界の中で必死にドアの取っ手に手を伸ばすけれど、僅かに遠い。
(だめだ、届かない…!)
倒れこむことに覚悟を決めて目を瞑る。
膝から力が抜けてがくりと揺れた臨也の体は、けれど突如力強く支えられた。
「――っ、何やってんだよ!」
無遠慮に大声で怒鳴る声に、臨也は呆然とした。
臨也の体を引き上げ、抱きしめるように支えていたのは、ここにはいないはずの静雄だった。
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