開いては閉じ、また開いては閉じ。
どうせ消せはしないのに、何度も「削除しますか」の文字を眺めて、また閉じる。
そんな意味のない動作を繰り返すことも、掛けてくるなと一度言われたくらいで馬鹿みたいに落ち込んでいることも、自分らしくなさすぎて苛立つ。
何度来るなと言われても、池袋に通い詰めてちょっかいを掛け続けた図太さはどこへやら。
一体どれだけあの“夜の電話”に依存していたのかと思うと、情けなくて溜息が止まらない。

あの日から一週間と二日。
臨也は電話はおろか、池袋にでさえ出向いていない。
意図的に池袋での仕事を避けた結果だが、電話もせず、池袋へもいかずにいると、こんなにも静雄との接点はなくなってしまう。
それがまた臨也を暗鬱な気分にさせていた。

「ちょっと、あなた本当にいい加減にして頂戴。仕事にならないわ」

何度目かの臨也の溜息に、とうとう波江が荒だった声をあげた。
緩慢な動作で波江に視線を向けると、普段からとても穏やかとは言えない眉が更に釣り上がり、眉間のしわが異常に深い。

「うじうじされても迷惑なのよ。とっとと池袋に行くなり、電話するなりしたらどうなの?鬱陶しいったならいわ」
「波江さんのように誰でも躊躇いなく愛情を表現できる訳じゃないんだよ」
「表現できないようなものなら、そんなもの偽りよ。愛しくてたまらないのなら、言わずにはいられないはずだわ」

臨也を悩ませ続けるこの感情を偽りだと言うのなら、それはもう両手を挙げて大喜びしたいくらいだ。
とっとと悩むことをやめて、いらないものだと捨ててしまいたい。
けれどそれができないから、臨也は数年間ずっとこの感情を小さく小さく折りたたんで、隠して、嘘を吐いて、それでも大切にしまってきた。

(でも、それももうおしまいかな)

これ以上この感情をしまっておいたって、不毛なだけだということは百も承知。
そもそも自分が静雄に好かれるなんて奇跡が起こるとも到底思えない。
ただ、好きになってもらえなくてもいいから、嫌いだと言われなくなりたくて必死で足掻いたけれど、ファーストコンタクトで臨也が与えた印象は最悪で、攻撃的な態度を変えられなかった意固地さが今の結果を招いている。

諦めるしかない。いっそ池袋にちょっとやそっとじゃ行けないどこかへ、移り住んでしまおうか。
またいつの間にか開いていたデータを見つめて、そして目を伏せた。

もう、耳元を甘く擽っていた静雄の落ち着いた声を思い出せない。
臨也の中の静雄は99%が怒りを爆発させていて、叫んで怒鳴っている。
せめて、せめてもう一度だけ臨也の名前を穏やかに呼ぶ声を聞いておきたかった。
それが最後だと覚悟ができていたのなら、これほどずるずると未練を引きずったりしなかったかもしれないのに。

「………はあ」

もう何度目かも分からない溜息を吐くと、波江の苛立ちをそのまま体現したような、机を爪ではじく音が一層強くなった。
そろそろ本気で仕事に取りかからなければ波江の怒りが収まらないと、パソコンの画面に向き合った時、突如コツコツと絶え間なく続いていた音が止んだ。
しばしパソコンの画面に集中した波江は、次いで視線を臨也に向けて、口角を釣り上げた。

(うわ、嫌な予感…)

思わず椅子ごと後ずさった臨也に、嫌味120%の笑顔で波江が言った。

「仕事よ」




歩き慣れたはずの道を、臨也は過剰なほど慎重に進んでいた。
お気に入りの黒いコートをきっちり着込み、フードまで厳重に装備している。
右を見て、左を見て、とにかく気配を消して人ごみにまぎれて、足早に通りを抜ける。
臨也が数日訪れなかった池袋の街は、いつもとなんら変わらず日常を生んでいる。
その中に潜む無数の非日常など簡単に飲み込んでしまう。

この数日、意図的に池袋での仕事を避けてきたが、どうしてもと言って引かないお得意先(臨也の場合によってはそれを都合のいいカモとも言う)からの急な仕事を波江が勝手に引き受けたのだ。

(絶対嫌がらせだ)

事務所で自分を見送った波江の顔には、「あーせいせいした」とはっきり書いてあった。
静雄のことを完全に諦められるまで東京を立つ覚悟さえしていた臨也をあっさり池袋に押しやって、彼女は今頃一人悠々とほくそ笑んでいるのだろう。
しばらく自分に池袋関連の仕事が回って来ないように手回しさえしていたと言うのに、せっかくの苦労は波江の仕返しで水の泡。
渋々取引先へ出向いて仕事を終えてはきたが、臨也だって自分がなぜ池袋へ足を運んだのか良く理解していた。

どうしても会いたくないのなら、仕事を断るという手もあったし、池袋にはいかないと意地を貫きとおすことだって幾らでもできた。
それなのにそうしなかったのは、本音を捨て切れずにいる汚い自分の言い訳があるからだ。
今後の円滑な取引のことを考えて、なんてもっともらしい理由をぶら下げて、公然と池袋に行きたかっただけだ。
拒絶されても、偶然静雄に見つかって、また追いかけられて、少しでも話をしたかっただけ。

「ほんと、なんて女々しいんだろうね」

どんなに人ごみの中に紛れていても、どうしたって探してしまう金髪と青いサングラス。
雑踏の中でさえ臨也をはっきりと捕えている茶褐色の瞳を見つめ返し、こちらに真っ直ぐ向かって歩いてくる静雄に、臨也は観念したようにそっとフードを取った。

両者の姿に気付いた通行人たちが、逃げるように慌ただしく道を開ける。
ざわめく人々の視線を気にとめた様子は微塵もなく、静雄は無言のまま近づいてくる。
唇を引き結んだ静雄からは、なんの感情も読み取れなかった。
何を言われるのかと逃げ道を探ることをやめて、臨也は改めて自分の愚かさを思い知らされた。
こうして見つけてもらえるだけで、視線が合うだけで、こんなにも嬉しくてたまらないのに、諦められるはずがなかった。

「来い」
「えっ、ちょ…ちょっと!」

その場から動けずにじっと静雄を待っていた臨也は、強引に腕を掴んだ静雄のその行動に意表を突かれた。
コンパスの違う二人では、静雄の方が歩くスピードは断然速い。
なぜ殴りかかられなかったのか考える間も与えられず、臨也はまるで引きずられるようにして細い路地に辿りついた。
乱雑にビルの冷たい壁に押し付けられて、よろけながら呆然と静雄を見上げる。

(怒って、る…?でも……)

いつものように、抑えられない衝動を無遠慮にぶちまける訳でもなく、けれど視線は臨也を射抜く。
馬鹿が付くほど単純で分かりやすいかと思えば、時折こうして予測もつかない行動に出る静雄。
思う様にいかない存在が疎ましくて、だからこそ惹かれて、静雄から視線を外せない。
お互い狭い路地で向かい合ったまま、しばし沈黙する。
やがて僅かに逡巡した後、静雄はようやく口を開いた。

「俺はよ、言いてえことがあるなら会って直接言えって、言ったよな」

らしくもなく感情を抑えた声音で、唸るように静雄が言った。
混乱した頭の中で、そう言えばあの日静雄に同じ言葉を言われたことを思い出す。
「もう掛けてくるな」と拒絶されたことばかりが臨也をネガティブに引きずり込んでしまっていたせいで、すっかり忘れていた。
新羅がもう一度よく考えろと言ったのは、このことに起因していたのだ。

「別に、シズちゃんに改まって言いたいことなんてないよ。ああ!君を苛立たせる言葉ならありとあらゆるタイプの文言を取りそろえているけどね!なに?君はわざわざ俺にそんなことを言って欲しいの?だったら相当のMだね」

動揺を悟られまいと、普段通りの自分を装い、口を動かす。
下手に視線をずらそうものなら、確実に静雄は異変を嗅ぎ付けるだろうし、何より負けたようで悔しい。
けれど実際、頭の中は玩具箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃだ。
掛けてくるなと言ったり、話せと言ったり、静雄の行動理由がさっぱり見えない。
これだから野性の感で生きている人間は苦手だと、臨也は舌打ちさえしたい気分だった。

「―――だったらなんでわざわざ電話なんざしてきたんだよ!電話では一度も俺を化け物とも言わなかったし、死ねって言わなかっただろうが」

臨也の頭の僅か数センチ横に、静雄の拳が文字通り突き刺さった。
コンクリートの破片がパラパラと落ちる音をよそに、臨也は内心酷く驚いていた。

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