第1話

月明かりを遮って輝くネオンが、視界をいっぱいに埋め尽くす。
まるで初めからそこにはなかったと言うように、行き交う人は誰も空を見上げない。
随分と遠のいた星空の下には、忙しなく日常を繰り返す池袋の街があった。

静雄も街に溢れる人々と同じように、いつも通り仕事を終えて人の流れに沿って歩いていた。
けれど静雄の足が向かう先は自宅ではなく、表通りから逸れた道だ。
たった一本裏通りに入っただけで、池袋の街を犇めいていた喧噪が遠のく。
思わずふ、と息を吐いて、静雄は人通りの少ない道を更に歩いた。
これもまた静雄にとっては日常の一部となった、いつものことだった。

特にどちらかが約束したわけではないけれど、静雄は仕事の後はこうして路地に入り、臨也と待ち合わせる。
約束がないのだから、もちろんその先は何も決まっちゃいない。
静雄の家に行くときもあれば、どこかで外食することもあるし、臨也のマンションまで行くこともある。
決定権は臨也が持っているから、きっと行く先はその時の気分次第。
けれど静雄はそのことに対して、取り立てて抗議することもなかった。

徐々に暗くなっていく道をぼんやりと歩いていると、ふいにポケットの中の携帯が震えた。
臨也だろうか、と思いながら携帯のディスプレイを見ると、表示されているのは上司の名前だった。

「お疲れ様っス。どうしたんすか?」

ほんの数十分前に別れたばかりのトムからの電話に、まさか急に仕事だろうか、と思案したものの、電話の向こう側から返ってきたのは酒の誘いだった。
言葉少なく会話を交わし、見えないはずの相手に対し、数度首を縦に動かす。

「はい、じゃあ明日の夜っすね。楽しみにしてます」

割引券をもらったと明るく言ったトムは、真っ先に自分を誘ってくれたらしい。
問題ばかりを起こす静雄を、それでもトムは笑って許してこうして遊びに誘ってくれる。
上司と酒を飲む、という誰もが当たり前に経験している些細なことが、静雄にとってはたまらなく嬉しい。
まさか自分から声を掛けられるはずもなく、いつも受け身な分誘ってもらえた時の喜びは一入だ。

「嬉しそうだね、シズちゃん」

唐突に暗がりから声が聞こえ、静雄は反射的に携帯から顔を上げた。
路地を覆う闇に溶け込むように佇む臨也の姿が、ぬうっと街頭が生んだ明かりの元に飛び出た。

「たかがお酒を飲みに行くくらいでそんなに喜んじゃって、ほんと可愛い」
「ほっとけ」

恐らく、頬を緩ませていた姿を見られたのだ。
気恥ずかしさに悪態を吐いて、携帯を乱暴にポケットの中に突っ込んだ。
意地の悪い笑みを口元に浮かべていた臨也は、早々に飽きたのか既に無表情だった。

「今日俺ん家にしよう」

両手をコートのポケットに差し込んで、広い道路に向かって歩き出す臨也の背を静雄も追う。
ほんの少し後ろを黙って歩いていると、臨也が大きく欠伸をした。
目元を擦りながら瞬きを繰り返す姿に、静雄はため息を漏らす。

「んだよ、また夜更かしか」
「んー、どうだろう、俺にしては結構寝たと思うけど」
「まあ、ノミ蟲の友達なんてパソコンしかいねぇしな」

胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら、軽口を飛ばす。
空に向かって白い煙を吐き出す傍らで、臨也が笑う。

「ひっどい、シズちゃん。少なくとも、君よりは友達多いと思うけど」
「信者の間違いだろ」
「君も言うようになったね。口の達者なシズちゃんなんて気持ち悪いから、それ以上お勉強しなくていいよ」
「てめぇのが染ってんだよ」
「あはっ!何それ、俺感染病か何か?」

思えば随分、落ち着いて会話ができるようになったものだ。
本当に臨也の巧みな言葉が感染したのか、それとも臨也の言葉の棘が減ったからなのか、それは定かではない。
けれど確かなのは、それだけ静雄と臨也が同じ時間を過ごしているということだった。

こうして他愛もない言葉を繰り返す日常が、特に山も谷もなく延々と続いていく。
その内静雄はすっかり臨也に毒されて、想像もし得ない言葉を吐くようになるかもしれない。
馬鹿げたことを考えながら、煙草の灰を携帯灰皿に落とし、もう一度口に運ぶ。
その時、サングラス越しの世界の中で、黒い影がすっと沈み込んだ。

「――っおい!」

急に膝から力が抜けたように、臨也の体が崩れた。
咄嗟に伸ばした手が臨也の腕を掴み、思わず込め過ぎた力を慌てて緩めた。

「ん…、ねむ……」
「…どんだけ寝不足なんだよ」

頻りに目元を擦る臨也は、既に目を開けていられないようだった。
仕事柄臨也が夜更かしをすることが多いことを、静雄はよく知っている。
大抵寝不足で欠伸をかみ殺しているし、おまけに眠りも浅いせいですぐに起きる。
ふらふらされては面倒が増えるだけだといつも文句をつけてきたが、臨也は一向に生活を正そうとはしない。
それでも今まで、まともに歩けないほど眠気に襲われている臨也を見たことはなかった。


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